1.天保一揆
  「天保一揆には下山の村人も」(8頁)の項でも述べましたが、天保13年(1843年)の天保三
 上一揆には、甲賀郡はもとより野洲郡や栗太郡などの農民1万2千5百余人が三上山の麓に集
 まって、不満の声を上げながら検地をはじめとした悪徳勘定奉行、市野茂三郎の苛酷な測量に
 抗議を申し入れ、その結果この検地を『10万日日延べ』との約束書を作らせて農民が未曾有の
 勝利を収めたという有名な事件ですが、農民の中には下山の住民のほとんどの人が含まれてい
 たと考えられます。すなわち、この大挙に参加した人の罪状と名前の中に下山村の百姓伊蔵外
 52人に過料銭8貫文、あるいは下山村の百姓甚六と同源右衛門には過料銭3貫文とあります。
 あわせて54人の下山の農民に過料(罰金)が課せられたと言うことは、この一揆の蜂起にはか
 なり積極的にこの人達が関わったということになります。
  下山村のほかに伴中山村から2人の追放に問われた人がありますが、この人達もかなり先頭
 に立って活動されたものと思われます。当時の伴谷5ヶ村(今日の5ヶ字)のうち伴中山と下山の
 2ヶ村以外の3ヶ村からは科人が見当たらないと言うことは、下山村の全村民や伴中山のリーダ
 ー達がこの一揆に対して如何に真剣であったかを裏付けるものであり、悪徳に立ち向かわれた
 先祖の勇気と努力に対して改めて敬意と感謝を表したいと思います。

  なお、この一揆を蜂起するにあたっては、多くの主唱者の率
 先と犠牲によったことはあまりにも有名ですが、今日の湖南市
 三雲の伝芳山に建てられた天保義民の碑は、
明治31年(18
 98年)で天保一揆の起こされた年から実に55年後のことにな
 ります。何故この時期かと言うと、苦しい農民のためとはいえ、
 一旦お上
に盾をついたことに対するお咎めは簡単に解かれず、
 明治元年(1868年)の大赦令が出され、なお全てのほとぼり
 が覚めてからというとこの時期になってしまうのです。もちろん、
 野洲市の三上山の麓
にも立派な記念碑や記念施設が整備さ
 れています。


   【伝芳山の天保義民碑】

 2.耕地の松原事件
 
 「広野の耕地整理」にもあるように、この事件は施工面よりも資金面での困難を生むことにな
 り、当初11,580余円と見積もられていた工事費が、決算時には31,570余円となるなどの
 ために土地所有者と役員側とのトラブルが発生する事態となりました。
  ちょうどその時期は、全国的な不況期が到来している時でもあったところから、資金の借入先
 の滋賀農工銀行に返済する金が集まらず、またもや借入れをとの、借入れの繰り返しを余儀な
 くされていたようです。こうした実態を当時伴中山に在住のN氏という人物が大津市在住の松原
 と言う男にこれを話したのがきっかけで、松原がN氏を通じて整理の出来上がった耕地を買っ
 てやろうと大口の所有者に勧誘してきました。支払に困っていた大口所有者の数名は、売買契
 約を結んで手付金まで受け取ってしまいました。
  その契約の内容は、『指定期日までに換地登記を終了する事、なおこの契約に違反した場合
 は、手付金を倍戻しする事・・・・』等の文言があり、松原は事務手続上、指定期日までに登記が
 完了できないことを知った上でこの話を持ちかけ、土地を買う気など始めからからなかったもの
 と思われます。期日か過ぎても登記が完了されないのを理由に当然のこととして手付金倍戻し
 を迫ってきました。売主達は事の真相に気づきましたが、契約違反を全面に掲げた脅迫まがい
 の言動に遂に屈してしまい支払を承知しました。このことが銀行の知るところとなり、貸金が戻
 らないのではないかと心配して関係役員や売主の動、不動産を差し押さえてまわりました。これ
 が、その当時大きく世間で騒がれた「松原事件」です。
  その後、関係者が話し合いを続け、金策に奔走し、親類や縁者に田畑や山林を買ってもらう
 等して償還金を捻出し合った結果、全面的に解決したのは大正期も過ぎ去り昭和を迎えてから
 のこととなりました。
 
3.岩根の場広山と大谷山の境界問題
 
 昭和54年(1979年)に甲西町(現湖南市)の希望と申し入れによって下山の大谷山と甲西
 町大字岩根字場広山との境界位置(線)の確認を求めてこられたため、双方の関係者が立ち
 会いの上、協議を行ない一応その場は相互の認定する位置を決めましたが、後日、下山区側
 よりその設定位置(線)に疑義が生じたため、その確定事項の訂正を求めて再三にわたって
 西町に申し入れましたが、甲西町側がこれに応じなかったため平成3年(1991年)に下山区が
 提訴に踏み切りました。係争の対象となる面積は約8ヘクタールです。以後3ヶ年にわたって下
 山区の関係役員や依頼弁護士さんの努力によって、ようやく和解が成立しました。
  和解の解釈は複雑ですが、概ね勝訴とみなすことができます。ただし、和解条項にも示され
 ているとおり「今後原告(下山)、被告(甲西町)とも、本件に関し名目の如何を問わず何等の請
 求もしない」との条項に双方が確認し合い、和解金の支払い(甲西町より下山区へ)をもって円
 満に解決したことになります。

 この件に係る裁判資料の一部を次に添付します。




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