1.広野の耕地整理
大正5年(1916年)頃、下山では農家戸数に比べて耕地の面積が少ないため開墾をして耕
地面積を増やそうとの動機、発想が生まれ、その候補地として広野の丘陵地が選ばれました。
この地域は、山林の傾斜地であり、部分的には平地等に湧水もあり耕地(田)として利用されて
いる所もありましたし、また小さな溜池もありました。
先ず、大正5年(1916年)の8月に手順として耕地整理組合を立ち上げて工事が始められま
した。工事は、先ず細工谷と石車の谷の合流点に溜池をつくる工事から始められました。現在
の耕地池です。なお、この池の樋管の特徴として、当時としては斬新で珍しいコンクリート管が
使われました。樋管といえばそれまでは、木材をくり貫いて加工したものがほとんど使われてい
たものです。工事中は豪雨に遭遇するなどして、延べ1,000人の人夫を要し、2年間の歳月
を費やしました。次いで耕地造成工事に入り、土砂運搬用にトロッコを使うことになり、レール
500メ-トル分を組合(区)で購入して工事請負人としての臼井祐治郎氏に貸与して進められ
ることになりました。このトロッコとレールの一式は、後年になってからも地域内の道路工事や
各種災害復旧工事に大変長い間活用されていました。
ところで、耕地造成工事は出来上がった耕地池より下に幹線水路を作り、それより低地の山
林を田用地として工事は進められました。完成後の田地は、原則として従前地の山林や田畑
の所有者に換地して、溜池用地となった山林は区有林を代替地として返却されることになりま
した。
(ところが、これの所有権移転登記が未だ果たされていません。ちなみに大谷新池、北山新
池も同じです。)
こうして本工事は、施工上の難工事であった以上に資金面での困難性を生む結果となり、後
に「松原事件」とまで言われる経済事件に発展してしまいました。
このことについては、「過去の出来事」編をご覧ください。
なお、この工事が完了した40年後の昭和36年(1961年)に工事に関わった関係者を偲ん
で下の記念碑が建立されています。

【碑文の(写)】
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2.県営ほ場整備事業
時代の進展とともに農業経営も「近代化の道を求めてこれに早く乗り換えないと取り残されて
しまう・・・。」と言い出されたのが昭和も半ば(1960年)の頃からでした。
農業の機械化は進み、日常生活の高度化による生活費の高騰は避けきれず、かと言って米
価をはじめ農産物価格低迷からは逃れられない情勢のもと、家計のやりくりを考えると、唯一、
機械化によって得た余剰労働力を農外に繰り出し、半ばサラリーマン化という兼業の途によっ
て農外収入を求めざるを得なくなってきたのが、この時期からだったようです。
しかしここにきて、この途を選ぶについての新たな問題として大きくのしかかってくるのが、従
来の耕地とその付帯事項の大改善(基盤整備)でした。
早い話が、この下山地域のような山間にあって、①田んぼの一枚一枚が狭く小さく、②その
高低差ははげしく、③灌漑の用排水も思うにまかせず、④湿地の改善を図るにも限界があり、
⑤運搬車両や大農機具の通行や乗り入れも困難をきたすと言う、これら諸悪の条件下にある
既存の耕地を改善すること、すなわち、このころから使われる用語となった『ほ場整備』の必要
性でした。
ここにくると、どうやら前頁90年前の「広野の耕地整理」と若干目的を異にする求め方が生ま
れてきています。しかし、これは下山のみならず下山に類似する全国の農家も思いは同じよう
でした。それが証拠に、すでにこのころから全国のあちこちでは、この事業が行われてきました。
先進地ということになります。
下山では、遅きに失したと言う人もありましたが、この時期から22年を経過した後、昭和57
年(1982年)に採られたアンケート調査の結果によって、にわかにその機運が盛り上がってい
ます。何らの強制力や拘束力ももたない単なるアンケートではありましたが、「すでにこの時期
ともなれば」との、ほ場整備を希求する下山全体の気持ちがこのアンケートの結果に込められ
ていたものと伺われます。
しかし、さて事業の実施と言うことになると、当時のほ場整備委員長の伴隆男氏が述懐して
おられますように、農民個々、先祖代代の土地を移動したり新たな畦を作ることへの不安、そ
れとこれによって本来人間に潜在し、発生してくる利害感覚等々、ほ場整備のネックとも言わ
れるこの種の問題処理には大変な苦労があったと思われます。
ここに、そのほ場整備の大要を記しますが、これはすでに事業の完了時に各地権者に配布さ
れている工事概要書の中から抜粋したものに一部解説を加えたものです。したがって、詳しい
ことは『滋賀県営ほ場整備事業、伴谷地区概要書』を見てください。
1.事業の名称
滋賀県営ほ場整備事業(下山工区)
この事業は、下山をはじめ伴中山、山との3区連合の事業となりましので、以下は下山の
みの対象分を記載します。
2.事業の期間
起工 昭和61年(1986年)~ 竣工 平成9年(1997年) 11年間
(起工までの委員の選考その他のため2ヶ年程を要しています。)
3.対象面積
・ほ場整備
50.7ヘクタール
・その他農道、水路等 8.5ヘクタール
合 計
59.2ヘクタール
(この合計面積は、概ね下山の総耕地面積の90%ぐらいになります。)
4.事 業
費
5億9,700万円
5.負担割合
地元負担 22.5%
県 〃 32.5%
国 〃 45.0%
この事業は補助事業ですので、上記の率の割合で県並びに国の補助金を受けています。
なお、この率は工事費に対する割合であり事務に要した経費の割合は、概要書にもあり
すまように地元以外は別です。したがって地元(地権者)が負担した金額は、1億3,400
万円強となります。
6.役 員
実行委員長 伴 隆男(伴谷地区委員長 兼任)
副 委員長 傍田 吉雄
会計兼書記 伴 資男 菊田 宗高
換地委員長 林田 貞夫
水利委員長 伴 一松
作付委員長 傍田 吉雄(兼務)
工事委員長 竹内 文太郎
(他に副委員長、委員など45名によって専門委員会を構成されています。)
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