文      明

  この項で述べる文明とは、わたくしたちが生活を送っていく上で大変便利になった身の回りの
 事物と、これの発達史のことを言うのですが、何といっても、これらは長い歴史の中でありながら
 きわめて最近になってからのこと、すなわち歴史区分の上から眺めてみても近代(明治維新後)
 に限定されてしまいます。
  なおその上に、これらの文明の恩恵も享受するに至るまでは、地域間や職業等による格差が
 あったようにも見受けられます。
  純農業の地域であり僻地にも等しく、あまり裕福でなかった下山のこと、決して他地域よりも早
 はなかったと思いますが、それぞれの導入の時期を調べてみました。
 1.電 灯
  大正2年(1913年)にこの下山にも初めて電灯が点ったとの記録があります。何といっても
 線と電流を伴った電灯は文明の利器の中での代表でした。今日までカンテラ(石油ランプ)など
 のほの暗くて手間暇のかかる心細い明かりから、一変して電球灯に切り変わったとき、村人た
 ちは大変な喜びに湧きあがったとのことです。おそらく現在の諸々の家電製品やパソコンの普
 及などとは数倍にも勝る感激だったのかも知れません。その当時は、各家庭に一灯ぐらいの定
 額電灯でしたし、夕方暗くなると送電され、夜が明けて朝になると変電所の方から電源が切られ
 るという方式でした。それでも大変有難い文明の神様のような存在の電灯でした。
  ずい分後期になってからの話ですが、水口の大手の商店で昼間でも電灯が点る店が現われ
 てきたため「あそこの店には、ひる電灯が引いてあるぞ!!」と言って珍しがったものです。
  日進月歩、技術的にも制度的にも近代化されながら、おおよそ100年後の今日を迎えること
 になったわけです。
 2.公社電話
  現在のNTT電話のことですが、これの発明から現在に至るまでの歴史は、すでに学校等で学
 んできたとおりです。ところで、この電話、もっとも私たちの身近に導入されたのは明治44年
 (1911年)伴谷村役場と農事信用組合(現在のJA)の2施設ぐらいでした。当時はまだ大局的
 に電話機などは役所や学校、病院などの公共施設や利用の多い大商店などで使われていた
 度です。
  年の経過とともに普及の台数も増えはじめ、この下山で使われはじめたのは昭和25年(195
 0年)頃、森本醤油店(臼井荘一郎氏宅)と竹内酒造店(竹内克実氏宅)ぐらいでした。これとは
 別に菊田宗高氏宅に公衆電話が設置されていました。
  これらは総合的に伝え聞くところによると、下山の家屋配置上、臼井家の電話については中
 の垣内で、竹内家の電話については西市場、中市場、迎山の住民が利用させてもらうよう依頼
 し、菊田家の赤電話については西の垣内の住民が利用させてもらうよう菊田氏に協力を求めて
 設置されたもののようです。電話通信の必需性がぼつぼつこの頃からこの下山にも芽生えはじ
 めたようです。
  その後、何年かの後、この下山にも電話加入者が現れはじめ、今日の全戸加入の現状となり
 ました。ちなみに当時の電話機は機器の側面についたハンドルを回して交換手を呼び出して、
 かけたい相手の電話番号を告げて接続してもらうという手数のかかる方法でした。

  
              【レトロ電話機】

  3.路線バス
  一定容積以上の乗り合いバスを運行するには、最小限度の道路幅員が必要となります。でも
 県道泉、日野線は幅員は大変狭いものでした。そのため、道路の拡幅工事がある程度整った
 後の昭和28年(1953年)、地元伴谷村の申請によってようやく国鉄(今日のJR)バスによる
 口、三雲駅間が開通しました。続いて滋賀交通も運行されるようになり、これで併せて往復7〜
 8便、停留所は近江下山と九品寺前の2ヶ所ながら、下山の住民も「やっとわが村にも世間並
 みにバスが通るようになった。」と喜びました。その当時は、アスファルトなどと言う上等の路面
 ではなく砂利道でした。比較して柏木地区は、旧国道の路幅も広く整備され乗客も多かったた
 め、随分早くから運行されていたようです。
  ところが、その後、伴谷線は時代とともに自家用車の普及によってバスの利用客が減りはじ
 め、8便から7便、5便から3便、2便へと運行回数も減らされて昭和
60年(1985年)には、全
 線廃線となってしまいました。
  その後は、行政による巡回バスの運行によって、最小限、住民の足として充てられるようにな
 っています。

 4.上水道
  上水道が下山で開通して供用できるようになったのは昭和35年(1960年)です。それまでは
 個々の屋敷内で昔に掘られた井戸の水を生活用水として利用していましたが、健康や環境の
 面による町民の強い希求から町営による上水道がこの時期に完成しました。このため滋賀県
 下では比較的早かった公共施設であったようです。
  なお、第1次的には蓄水施設のスペースから、伴谷では下山と伴中山のみの開通となり、八
 田、春日、山については最終的に7年後の昭和42年(1967年)に供用が始められています。
  当時は、未だ下山の住民にとっては、それぞれに苦しい家計の中での事業でしたので、出来
 るだけ経済負担を軽くしようと区民個々に割り当てられた工事人夫に出役したり、区有林の立
 木を売って共通経費に充てる等、苦労の多かった大事業でした。筆者(編集員)など、夜間を通
 しての土木出役に出ていて、未だ若かったため自分で掘った穴の中で疲れて眠ってしまったこ
 とを苦々しく覚えています。

 5.有線放送電話
  有線放送の施設は、地域の情報通信を目的として整備された施設で協同組合方式によって
 運営されています。下山の属していた水口有線放送組合では、昭和39年(1964年)に開通し
 ましたが、当時は公社電話(今日のNTT)が普及していない農村地域のこの下山のことですの
 で、有線放送への加入率は、ほぼ100%近くに及びました。
  町内でのイベントや農耕上の技術アドバイスから冠婚葬祭のお知らせに至るまで、幅の広い
 放送部門などは貴重な情報源として好評でした。
  自治体(町)の合併に先駆けて、昭和57年(1982年)5組合(旧水口組合、土山組合、甲賀
 組合、甲西組合)の合併によって組合エリアを拡張し、平成14年(2002年)からは、インターネ
 ットサービスを手がけるようになり、この下山にも登録会員がたくさんおられるようです。

 
6.公共下水道
  水口町の総合発展計画による総合的な下水道整備のプランニングのもとで、市街化調整区
 域、特に周辺農村総合整備事業の一環として農村集落排水事業に取り組み、昭和62年(19
 87年)から計画的に生活環境事業が推進され、平成5年(1993年)には、農村下水道が春日
 と八田で供用開始されました。
  平成10年(1998年)には、伴中山、下山の二集落でこの事案に取り組み、その年の6月に
 下山区の総集会で区民の99%の同意を得て、公共下水道事業を進めていく決定がなされ、7
 月には実行委員会が設立されて、各組1名選出されました。委員長に菊田惣司氏、副委員長
 に伴兼利氏、会計に佐井新治郎氏が選出されました。平成11年(1999年)10月に水口町特
 定環境保全公共下水道事業の説明会が開催され、公共汚水枡の申請書で宅地内1ヶ所が原
 則で公道から1メートル以内のところの設置の取り決め等の説明がなされ、同年11月から測
 量、一部工事が行われ、町道西市場、中市場で工事着手以来、平成17年(2005年)3月で
 線の本管工事が終了しました。同年4月より供用開始の運びとなり、7年間の長きにわたる
 事業でした。

 
7.公民館(事務所)
  この項の最後に、文明に関する施設としてあまり気づかないものに、下山の住民 くつろぎ
 そして利用している共有建物、公民館(昔は下山事務所と呼んでいました。)があげられます。
 これは、文明というよりもむしろ文化施設と呼んだほうがふさわしいのかもわかりませが・・・・・。  
  江戸時代も終局を迎え、幕藩体制の崩壊とともに明治維新による封建的諸拘束の撤廃によ
 って、社会的にも変化のきざしが見えてきたのがこの頃のようです。それまでは、村人の慰め
 となったり楽しみとなるものは、代々伝わるまつりごとに参加したり、宗教上共通する信者が、
 お寺ごとに寄り集まって信仰を重ねることぐらいが唯一のものであったと考えられます。下山の
 場合は、幸いにも一集落、一ヶ寺であったため比較的地域性は保たれていたのかもわかりま
 せん。
  
しかし、ある程度世相も落ちついて地域自治が認められ、果ては求められる時代となると必
 要となってくるのが、住民が共通に集まれる館ということになります。この手始めとして、初めて
 宗教から離れて下山の住民達で力を合わせて建てられたのが明治14年(1881年)3月の下
 山学校でした。(下写真参照)
  当初、この建物は、下山の子供の教育施設という特定目的のための施設でしたが、年を重ね
 るとともに、唯一、地区の交流の場としても活用されるようになり、明治37年
1904年)に伴谷
 尋常高等小学校が新たに伴中山にできたため、下山学校もお役御免となったこの時期には、
 もはや今度は下山の自治活動や区民の交流の場所として必要欠くことのできない建物施設と
 なっていたようです。
  その後この建物も築後50年を経過し、老朽を迎えたため、昭和10年(1936年)同じ位置に
 同規模の建物を改築されました。聞くところによるとこの建物は、さる地区にあった比較的程度
 の良い中古の建築物を買い求めて改築されたものだったそうです。この建物のことを当時はす
 でに「下山事務所」と呼んでいました。
  この事務所も地域では長らく馴染み親しんできましたが、古材が使われていたため老朽が早
 く進み、24年後の昭和34年(1959年)には、これを解体して新たな建物が建てられました。
  この建物は、木造二階建てで屋根は赤瓦の寄棟造りという当時としては大変モダンな建物で
 した。なお、この建物の時からすでに公布(昭和24年)されていた社会教育法による末端施設
 として「下山公民館」と名づけられていました。
  これで、下山地域の公共建物としての区事務所あるいは公民館は三棟目(三代目)となり、い
 ずれも九品寺の敷地を借用しての更新を重ねてきていましたが、平成8年(1996年)3月、敷
 地の駐車スペースや若干の保有空地等の必要性から、名目は町有地である、さつきが丘の現
 在地に鉄骨造り二階建ての下山公民館が新築されました。
  以来、区の運営事務をはじめ営農活動や各種の同好会活動など、地域には欠かすことので
 きない拠点施設として幅広く極めて有効に活用されています。
  (以上のところから、現在使われている鉄骨造りの公民館は、下山住民の共有建物として四
 棟目(四代目)となります。)

 下山学校、のちに(初 
 代)下山事務所として
 活用されております。

 (因みに建前方の
 人物集合写真は、大
 正13年(1924年)下
 山義勇消防団が結成
 された時のものです。







 下山事務所(2代目)
 の建築設計時の青写
 真(建物の実物写真
 は求められませんでし
 たが、左図の青写真
 が発見出来ました。
 写真どおりの建物でし 
 た。)

 
     下山公民館(3代目)の実物写真

   下山公民館(4代目)現在の実物写真

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