2.広野台の宅地造成
昭和45年(1970年)、下山広野の山林を買収して宅地開発したいという大阪のデベロッパ
ー(当時は宅地開発等をする土建業者はこのように呼ばれていた)の大倉建設が下山の区長
に話を持ちかけてきました。
当時は、高度経済成長期と言われた時期で、各地で宅地造成が盛んに行われていました。
下山でも昭和35年(1960年)に積水化学工業㈱が、引坊の山林に工場を開設していました。
また、甲西町では湖南工業団地が造成され、多くの工場が操業していました。
広野の山林は、この工業団地の隣接地であり、下山の集落からは離れた所で農業用水の心
配以外に特に問題はないとのことで、用水の確保を条件に話がまとまり、昭和45年(1970年)
12月に売買契約が成立し、翌年より造成工事が行われました。
その後、さらに細工谷、牛飼塚の山林も売買され、2期工事として造成されました。
以前、山林は各家庭において炊事、風呂の燃料としての薪、柴、木の葉の収集地として大切
なところでしたが、プロパンが普及してからはあまり重要な所ではなくなってきました。
こうして造成された宅地にだんだんと入居者が増加し30余年後の今日(2007年)、東、西広
野台として2区を形成されています。
3.さつきが丘工業団地
昭和の後半期にさしかかって社会生活の高度化とこれに伴う生活費の高騰、加えて大型農
機具の購入や更新などによるダブル出費により、このころの農家経済は著しく混迷を深めてき
ています。
ちょうどこの時期、昭和46年(1971年)頃、不動産業者による柳瀬地先の山林買収の勧誘
があり、一部限られた所有者との売買取引が進められていました。これに端を発したかのよう
に、その後1~2年の間に複数の不動産業者によって山林買い取りの話が持ちかけられてき
ていました。それもそのはず、世はまさに当時の内閣総理大臣田中角栄氏による『日本列島改
造論』の提唱により地価をはじめとして諸物価の狂乱期を迎えていたのです。
ところで、地域や地権者の良識としてお互いにこのまま何の連携も持たずに個々の対応によ
って売買行為を繰り返せば、山林土地は虫食い状態となり、乱開発の憂き目も見かねないとの
思惑から町当局に対して意向打診をされましたが、妙案は出されず、さりとてこれを行政によっ
て開発するについては当局の財政上の観点から至難の時期等々、なんらの進展も見ず、結果、
衆議に諮った後、水口町農業協同組合の仲介によって滋賀県農村開発協会と売買契約を結
ばれました。
この年次が昭和50年(1975年)で、対象となった山林面積は9.93ヘクタール(10町歩弱)
です。
さて、当地が工業団地として本格的な造成工事に着手されたのは昭和59年(1984年)頃で、
開発者は住宅都市整備公団があたり、これの技術指導、基準管理並びに企業誘致に関しては
行政当局があたる等、まさに官民一体となってその後の事業は進められました。なお、造成完
了と同時に当団地への誘致PRを図る目的で「さつきが丘」と名付けられ、以後の地域名(大字
名)も公式に「さつきが丘」と名乗っています。
ところで、地元関係者にとってこの造成に関する最大の懸案事項は、開発によって失う灌漑
施設の代替確保の対策でした。溜池だけでも大小合わせて12ヶ所、他にこの山林から常時流
れる水を養水としてまかなう、いわゆる天水田を合わせると約15ヘクタールに達する受益水田
の用水を今後も確保することは大変なことです。
私案として、最も手近な方法としては、近くを流れる野洲川の幹線水路から権利者の承諾を
得て取水する方法が提案されましたが、これについては相手側(野洲川水利組合)の事情でど
うしても容認が困難となり、残された方途はボーリング工事を施し、地下水の汲み上げによる
高所貯水とこれを埋設配管による供給管の網羅(全長2,000メートル)によって適所に吐水
する方法が図られ、この工法で解決しました。
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