沿      革

   1.古 代
     気の遠くなるような昔の話になりますが、私たちの住むこの日本列島に人間が住むようにな
   ったのは、今から15万年から16万年前からだと言うことが最近の調査で分かってきています。
   でも、この滋賀県や甲賀市にもその頃から人が住んでいたかと言うとそうではありません。
   ただ、わが国の特定された地域でその形跡が発見されている、と言うのが現在の実情です。
  (下山の先祖?)
   ところで、15万年の昔どころか、1万年、いや、もっと大きく近づいて2千年くらいの昔からこの
   土地にも人が住むようになり始め、農地を拓いたり籾の種を蒔いていたようだとの資料や記
   録が出てきています。(垂仁天皇の時代)
     確かな史実資料を得ずして歴史は語れませんが、甲賀郡志によれば、当地域の場合、現
   在の野洲市の三上から野洲川に沿う形でだんだんと川上に拓かれてきて湖南市の菩提寺や
   当市の柏木、伴谷、貴生川、水口の方向に、果ては土山町の大野から鮎河へと拓かれてい
  
ったであろうと語っています。しかし、残念ながらその頃の下山のことはまったく不明です。
   でも、おそらくその頃からこの土地にも人が住みはじめ、ここを『しもやま』とは呼ばないにして
   も、生活を営む人、言うなれば私たち下山の先祖と呼べる人が発生していたのかもしれません。
 (鑵子塚古墳)
  
ところで、この私たちの集落を含めてもう少し広く大きな地域を視野に入れて眺めてみると、
   少しこの頃の資料や文献が出てきます。
   その一つとして、今日の積水化学工業の敷地の中に鑵子塚古墳と呼んでいる古墳が東西

   二基保存されています。古墳とは、大和時代にその地方
   の有力者や豪族を葬る墓として大変流行したとのことで
   すので、例えば現在の水口町の一円とさらには湖南
   の野洲川より北側にあたる旧岩根村、加えて土山町の
   大野村等を治めていたとされる甲賀臣、もしくはもう
   少し時期を経てからこの地域を統括したと言われた豪族
   の佐々貴(狭々貴とも書く)山君の一族である山直と言
   う名の郷長の墓ではないだろうかと言われています。誰
   の墓とは今もって分かっていませんが、いずれにしても

   今から1500年前後の昔に作られた墓であり、また通称引坊山と呼ぶ私たちの集落に最も近
    い場所に葬られていることからすると、案外この地域一帯は当時の要人や豪族達の活動の一
    大拠点であったのかもしれません。
   (日吉神社)
    さて、この私たちの集落に何らかの形として現われ、そして長い歳月残されてきているのが
   日吉神社です。実は、当神社は、明治の以前は十善神社と呼んでいたのですが、明治元年に
   時の政府の指示で日吉神社と改称させられました。この神社が天暦2年(948年)に勧請鎮座
   したとの記録がありますので、おそらくその頃から何がしかの小さな集落に住む人たちの信仰
   の対象として祀りをしてこられたものと思われます。
   (下山の地名と山直郷)
     それにしても、これまでのところ“しもやま”と言う集落の名称や地名が、まだ正式に出てきて
   いませんが、この頃からぼつぼつと「下山」と呼ばれ出したのではないかと考えられます。すな
   わち、当地は、この当時山直という郷長が治めていたと言うことは前にも述べたとおりですが、
   そのころ別に山三郷という呼び名が出てきます。この三郷の意味は、現在の大字山、伴中山
   と春日、そして下山の三つの郷を指しているのですが、その当時大字山の場合を上山と呼び、
   伴中山と春日の場合は中山と呼びました。下山の場合は、現在と同じように下山と呼んでいた
   ようです。こうして、それぞれの地名を上、中、下と分けて付けた理由は、この三集落を東西に
   縦断する主要河川(現在の思い川)の流域の上流になる大字山集落を上、中流に位置する伴
   中山を中、下流に位置する下山を下としました。
  なお、それぞれ上、中、下の次に山を付けたのは、当時の郷長である山直の「山」を付けたも
   のと考えられます。このようにして、上山郷、中山郷、下山郷というそれぞれの地名郷名をこの
   ころから使っていたようです。ただし、これの文献資料としては、元徳3年(1331年)の注進目
   録という今日の公文書のようなものに「下山郷」という地名が甲賀郡志に出てきます。おそらく、
   下山の地名が資料として公式に出てきて残っているのは、この目録書が初めてのようですが、
   それより随分以前からこの下山の名前は名乗られていたに違いありません。
     これとは別に、下山以外の山や伴中山それに春日の現在の名称は、中世以降に分離や統
   合、あるいは改称されたものです。春日は、明治6年までは畑とよんでいました。また、八田の
   場合、今は同じ地域内(伴谷地域)であっても、当時は岩根郷に属していました。
   (暮らしの様子)
     この辺で、お互いに今の暮らしぶりと、このころ(奈良時代から平安にかけて)の暮らしぶりを
   比較してみたいと思います。もちろん下山の人の暮らしの記録など残っていませんので、歴史
   書の中でいろいろと調べた結果となります。
     おおむねこの頃の農民で裕福な人は、掘っ立て柱で作った家に住んでいましたが、農民の

   大部分はまだ竪穴住居に住んでいました。農民
   の食事は、普通一日二食で米に粟と稗を混ぜ
   て食して、麻の衣服をま
家族構成としては、現 
   代と違って平均的には三つくらいの小家族(房
   中)が集まって平均25〜30人ぐらいの家族と
   なっています。当時は、これを一戸として戸籍を
  
作っていました。もちろん全部が一軒の家に住
  
んでいるのではなく、数軒の家に分かれて住ん
   でいたようです。
   (税の実態)


                    【竪穴式住居】

     庶民は、この頃からすでに税を納めていました。税といっても、現在のようにお金でなく品物
   や労役です。当時は、口分田といって成年男女一人ずつに1〜2反の田んぼが与えられてい
   ましたが、農民はその田んぼから1反(10アール)当たり「二束二把」といって今日の米に換算
   して10キログラムぐらいの米を納めていました。例えば、成人家族の構成員が15人であれば、
   それぞれの口分田から反当り10キログラム、すなわち150キログラムとなり、家族あわせた
   口分田が2町(2ヘクタール)あれば、200キログラムの米を納めることになります。ちなみに、 
   その当時の米の収穫量は、現在の五分の一ぐらいしか獲れなかったようです。その他に麻や
   絹あるいは果物など、その土地の産物なるものを別に納めなければなりません。そして、これ
   らの税を取り立てるための「計帳」という台帳が作られていました。まだその上に成年男子につ
   いては、一年間に60日以内、無償の労務作業に従事しなければなりませんでした。
  
また、これら成人になって与えられた口分田は、本人が死亡すれば没収となります。
     私たちの大昔の先祖は、このように苦労を重ねて生き抜いてきたようです。
   2.中 世
     日本の歴史を分類した中で、古代と中世だけでも1056年間という長い年月に及んでいます。
   その間日本の国の中では色々と大きな出来事が起こり、私たちの耳や目に残っているものだ
   けでも数え切れないほどあります。しかし、さて「下山ではその間一体何が起こっていたのか。」
   になると、これはあまりにも資料が乏しいので不明な事ばかりです。
   (下山は、お城とお寺の大国でした)
     でも、前述したように下山は、お城とお寺が大変たくさんあったことは明らかです。下山城に
   津山城、下山西城に下山北城、迎山東城、迎山西城、それに下山城のための城屋敷。お寺

   については、善隆院に光明院、中山寺など。これらのお
   城やお寺は、中世に築城もしくは建立
建立されたものの
   ようですが、その全ての城や寺が今では跡地として残って
   いるのみです。お城といっても、私たちがとっさにイメージ
  
をするような「石垣を高く築いた上に天守閣が大きくそび
   
えている」というようなお城ではなく、土塁で周囲を積み上
   
げて敵の攻略を防ぐことを一義に考えて造った城郭、言
   うなれば要塞施設だったようです。
   これらのお城も下山城以外の城については、そのルー


            【下山城址の案内】

   ツは不明となってしまっています。お寺についての善隆院と光明院は、今日の九品寺を創建し
   た後に廃寺とされたようです。中山寺については、どうやら戦火によって焼失したようです。
   (伴太郎左衛門という人)
     「下山城」が出てきましたので、ここで下山の歴史上の人物として登場してくるのが伴太郎左
   衛門景秀(播磨守とも云う)となります。
     伴太郎左衛門景秀は、今日の甲賀町櫟野の出身の人だと言われておりますが、延慶2年
   (1309年)11月、下山に来て下山城を築き、下山や中山(伴中山)及び畑(春日)ならびに上
   山(山)の一部をそれぞれ領したと言われています。そのうえ、太郎左衛門家は、この下山城
   を根城として代々各方面に勢力を及ぼし、甲賀郡内で数ある領主の中の「甲賀五十三家」
   一家に数えられるとともに、「甲賀二十一士」といって鈎の陣という戦では特に殊勲を収めた武
   士達に並び、なおそのうえに柏木の御厨と言われる伴谷や柏木地域の領有地内を取り仕切っ
   ていた「御三家」、すなわち山中氏、美濃部氏に並んでの伴氏であったようです。
     この下山城は、太郎左衛門景秀が築城して累代数々の業績や戦功を収めてまいりましたが
   天正10年(1582年)6月、かの有名な本能寺の変にて織田信長に仕えていた当時の伴太
   郎左衛門資宗は信長と共に戦死を遂げてしまいました。この時、下山城の城主でもあった資
   宗が戦死を遂げたために下山城も滅城しました。これによって下山城郭を継続維持して来た
   年数は273年間という長きに及んだことになります。(注;伴太郎左衛門の名は代々襲名して
   おりますので下山城を築城した太郎左衛門景秀と本能寺の変で戦死を遂げた太郎左衛門資
   宗は何代か後の太郎左衛門となります。その間の太郎左衛門のことについての詳細はわかり
   かねます。)
     その後、中世の終局を迎えるとともに甲賀五十三家、甲賀二十一士等、いわゆる甲賀武士
   達の活躍の場が少なくなるのに合わせたように伴一族の名も時折出てくる程度となり、やがて
   近世(江戸期)という次の時代へと移ってきています。
   3.近世・近代
    
さて、江戸時代に入ってから徳川幕府の定める東海道五十三の宿駅、水口宿の誕生によっ
   て宿場の町も大きく発展してきて、また下山を含めて宿場を取り巻く村々も良きにつけ、悪しき
   につけて大きな影響を受けながら歩んできたようです。
     ここにその一つとして水口宿の周辺農村としての下山村が、特に迷惑を被った例としてあげ
   なければならないのが「助郷」という制度でした。
     公人(役人)等が訪ねて来たり、旅をするについて宿駅から宿駅へ送り届けるための人足や
   馬を調達、提供しなければならないという役目に下山も指定されたわけです。資料によれば、
   これは役人のみにとどまらず、後には民間人まで輸送しなければならなくなったようですし、こ
   の助郷は、『水口宿から1里(4キロメートル)以内の村に29村を指定していた』とありますが、
   その実態は2里もその上も離れた村にまで及んでいたことが分かってきています。これをもう
   少し深く調べた結果、「助郷高五百五十五石」というランクに定められていたというこの下山村
   には相当厳しい奉仕が強いられていたようで、記録に出ている他の村の実態(下山には記録
   が無いため)から比較、換算してみると少なくとも1年間に500人以上の人足と400匹を上回
   る馬を調達、提供していたことになります。
     驚くべきことに、堂村(大字山の一部)や畑村(春日)では、助郷としての提供用の馬を飼育
   (堂村12匹、畑村20匹)していたようです。泉村や北脇村にもその記録はあるようですが、下
   山村の場合はこれも不明です。しかし、提供する馬を下山で飼育していなかったとしても当然
   その役目は逃れられず、代金に替えて提供していたはずです。
     いずれにしても、これは調べれば調べるほどに過酷な制度であったことが分かってきますし、
   限られた紙面では語りきれませんので、助郷制度についてはこの辺にとどめておきます。
  (岡山城と水口城とは別の城です)
     ところで、下山の歴史を語ればよいのに何故水口のお城のことまで・・・・・?といぶかる人が
   あるかも解りませんが、案外と岡山城と水口城(碧水城とも言います)とは別の城であることを
   知らなかったり、また勘違いをしている人がありそうですので、老婆心ながら記しておきたいと
   思います。それともう一点、今は亡き郷土史研究家の中西義孝先生の遺稿集「甲賀歴史秘話」
   の本の中に、岡山城主長束家と伴氏との間には姻戚関係があった、との記述が見られるため、
   これも下山に関わる事柄であるとの思いからあえて著書名のみを紹介しておきます。
   

     さて、岡山城とは現在の古城ヶ丘の頂上部
   に天正13年(1585年)に築かれた城で、初
   代の城主は中村一氏という人でしたが、三代
   目の城主長束正家が若くしてかの関ヶ原の合
   戦に参戦して敗れたために逃げ帰り、あちら
   こちら隠れ歩いたあげくに自害してしまいまし
   た。これが慶長
(1600年)、正家が39歳
   と言う若さでした。
     これによって岡山城は廃城となっ訳ですが
  
就任してきた城主は合わせて3代(3人)で年


              【水口城(碧水城)の角櫓】

   数にして15年という城自体が短い命だったことになります。
     なお、これの余話としてですが、若くして自殺した正家の正室であった栄子姫はこれ又36歳
   の若さで、その時臨月と言う身重の体でした。栄子姫は主を失った嘆きと悲しみ、それと周辺
   の迫害から、これ又さまよい歩いているうちに、とあるあばら家にかくまってもらい、そこで男子
   を産み落しましたが、心身の疲労からくる産後の肥立ちが悪く、あえなく栄子姫もここで最後を
   迎えることになってしまったのです。岡山城落城にまつわる悲話として、今も語り継がれていま
   す。

     次に水口城ですが、この城の所在地が、現在の水口高校のグラウンドとして利用されている
   場所で、現在ではその当時の城の建物の一部分として角櫓と言う建物が最近になって復元さ
   れ、これが「水口城資料館」として活用されています。
     水口城は岡山城落城の後、寛永10年(1633年)に築城されましたが、その本丸等は当時
   の代官の宿泊施設として充てていたようです。その後、徐々に城の必要度が薄れてきたため
   に部分的なとり壊しが行われ、明治の初期(7年)には完全に廃城となっています。この間にお
   ける城主、藩主の変遷や交替はずい分多く、また長きにわたり複雑であって書き切れません
   が、良く知られている加藤氏(11代続く)等であったことに本稿ではとどめておきます。
     なお、ここで私達下山に住む者として知っておくべきことは、本来なれば他の村々がそうであ
   るように、この下山村も水口藩に属して水口の領主の支配を受けるべきであるのに、別の、し
   かも複数の藩主による支配(分割知行)を受けていたという事実があります。詳しいいきさつは
   わかりませんが、興味ある事柄として記しておきます。
   (天保一揆には下山の村人も)
    天保13年(1842年)10月14日から3日間にわたったあの有名な天保一揆(天保三上一揆)
   は、当時の公儀検地に対する不満を訴え、甲賀や野洲郡の農民1万2〜3千人が蜂起した一
   揆ですが、その首唱者とされる11人の江戸送りを始め多数の科人を出しています。色々と調

  
   【矢川神社前 一揆のメモリアルパネル】

べた結果、この下山村からも54人の人が過料(罰金)を取られています。過料を取られるという ことは、一揆に
参加したという事であり、下山の科人54人と言うことは
おそらく下山の全所帯の人がこの一揆に加わっていた
ことを意味しています。
結果としてこの一揆は、農民側が勝利を収めたことにな
りますが、しかしこの勝利を収めるについては、獄死を
はじめ多数の犠牲者を出し、当時の下山の人たちも一
致団結のもと、死物狂いで闘ってこられたに違いありま
せん。このことについての詳しい事は「過去の出来事」(80頁)をご覧ください。

 近世から近代における統治者や行政区と下山)
   江戸時代から今日にいたるまでのこの方、統治者
   や行政区画が時代とともに変わってきていますが、
   これをいちいち記述しょうと思うと大変複雑ですの
   で、下記の通り一覧表としてまとめてみました。概
   ね次の通りになり
ます。


   【滋賀県甲賀郡第二区の印影】

        下山の属する領、藩、または県、郡、市、区、町、村(行政区)の変遷

年号、年次

領、藩または行政団体名

下山の呼称

 江戸時代 (1624年
  〜1870年)

堀田・美濃部領    川越・宮川藩
他に領・藩主として20余人
――他に領・藩主として20余人
にわたって交代や分割をして
支配してきていますが、これ
については割愛します。――

下山村郷
または
下山村

 明治4年
(1871年)

 水口県(7月)    大津県(11月)
(廃藩置県 実施)

下山村

 明治5年 (1872年)

 滋賀県甲賀郡第二区
(府県制実施により滋賀県となり、なお区制施行により行政区を構成)
 ※この時期、庄屋、名主、年寄りを廃し、正副戸長を置く。 ――下山、八田、畑、伴中山、上、下、 堂、松尾、岩根、朝国、下田の11村――

下山村

 明治12年 (1879年)

 滋賀県甲賀郡春日村外5ヶ村
  (郡制施行) ※郡役所開庁
――春日村外5ヶ村とは八田、春日、 伴中山、山、下田の6村をいう――

下山村

 明治22年 (1889年)

 滋賀県甲賀郡伴谷村
(町村制実施) ※村役場設置
――下田を除く5村で――

大字下山

 昭和30年 (1955年)

 滋賀県甲賀郡水口町
 (4町の合併により町に)
――水口、伴谷、柏木、貴生川――

大字下山

 平成16年 (2004年)

 滋賀県甲賀市水口町
 
(5町合併により甲賀市に)
 ――水口、土山、甲賀、甲南、信楽――

下山

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