日吉神社の春まつりは、例大祭として4月14日に近い日曜日に行われます。大正15(1926
年)に拝殿が新築され、その年から坂本日吉大社の大祭日と同日の4月14日を日吉神社の表
祭りとして斉行されるようになりました。その後、昭和54年(1979年)に初老の厄年を迎える方
々より子供神輿が寄進され、にぎやかな春まつりが行われるようになったことから、4月14日に
近い日曜日に変更されたものです。
春まつりは、祭神大山咋神命のお祭りで、当日は
多数の氏子が参列し、神事では氏子中より選ばれ
た4名の舞子が神楽舞いを奉納されます。
午後からは子供神輿がお旅所へ渡御されたのち、
集落中をねり歩き、途中の休憩所では菓子や飲み
物がふるまわれ、氏子中あげての賑やかなお祭り
が続いています。
|
【春まつりの神輿行列】 |
(元旦祭)
1月1日氏子中があいつどい日吉神社に詣で、元旦祭が執り行なわれます。昔から、集落の
長である区長が正装にて区民の年賀を受け、神事のあとには新年のあいさつをするならわしと
なっています。
また、元旦祭には厄年を迎える老若男女が氏神さまのご加護をいただくべく、神前で祈祷をう
け1年の無事を祈ります。
(祈年祭)
2月にその年の安全や五穀豊穣を祈願する大祭として行われ、舞子4人による神楽舞いが奉
納されます。また、この日には貴船神社の祭典も併せて斉行されます。
祈年祭は、全国各地の神社で行われるおまつりで、古く天武天皇の時代に祭祀が行われてい
たとされ、11月の新嘗祭と対になるといわれています。
(行い祭)
1月17日に祭典が行われます。新年になると物事を始めて行うとき、いわば区切りをつける
意味で色々な行事がなされてきました。1月5日はつくりぞめとして田に鋤を入れ、山の神から
持ち帰った「つと」を祀る行事がありますし、1月9日には山の口として宮守さんがお旅所で神事
を行い、この日から山仕事に入ってもよいとのならわしがあります。
農作業や山仕事を新しい年に初めて行うとき、昔の人は野の神、田の神、山の神に祈りをさ
さげ、安全や五穀豊穣を祈願されてきました。行い祭もこうした意味をもち、年の初めに諸々の
ことが無事に行えるよう氏神にお願いするお祭りとされています。
下山の場合は、明治元年(1868年)まで十善師を氏神として祀ってきたことから1月17日を
行い祭の日と定め、観世音菩薩、毘沙門天、不動尊など十善神社にまつわる祭事も併せて行
われています。
折からこの日は伊勢神宮つかいのしし舞いが拝殿で奉納されます。
(早苗振祭)
6月に日吉神社でお祭りが行われます。この起源は、神代の時代からある行事の一つで、神
さまが下界へ降神され、苗を田んぼに植えられ、田植えが全部終われば、また天に昇神された
そうで、人々はこの神さまにお礼参りとして氏神さまへ詣で、祭典が始まったとのことです。
日吉神社の祭典では、田植えが無事終わったお礼と豊作を祈願して神前に早苗が供えられま
す。また、神事の中では「御神湯」が行われます。人々が生きていく上で水と火は欠かせないも
のです。下山のお宮さんでは大正時代に寄進された立派な釜で湯を沸かし、巫女さんが湯立神
楽を舞いながら、笹で湯をまくなどして氏神さまに湯をお供えされます。これは、大事な湯を神に
奉納すると共に氏子の名前が読み上げられ家内安全や諸願成就を祈願されるものです。
さらに、祭典には「人形」が供えられます。この人形は、6月の水無月と12月の禊の年2回氏
子各戸に配布され、氏子の各家では半年にたまった罪、けがれを厄ばらいし、家内安全などの
願いごとを人形に託し神社に供えます。神前に供えられた人形は宮司と宮守の手により思い川
の迎山橋から川に流され氏子の人々の身を清めてもらいます。昔から水に流すという言葉があ
りますが、厄ばらいを人形に託す神事は遠い昔から行われているものと推察されます。
なお、人形などの神事は下山のお宮さんに限らず、各地の神社で行われています。
(新穀感謝祭)
新嘗祭とも言われ、日吉神社では11月に行われます。
この祭典は、秋の実りは神さまのご加護によりもたらされるものであるとして、その収穫の喜び
を感謝するお祭りです。
神前には稲の穂が供えられ、4人の舞子により神楽舞いが奉納され、氏子各戸の豊作を奉告
すると共に、神事ののちは白酒も振舞われ、氏子全戸に直会が配られます。
また、この日には次の宮守となる湯わかし(宮守見習)が決められます。宮守の候補者となる
者の名前を書き、小さく丸められた和紙を神前に供え、祭神の前で宮司のつかさどる御籤によ
って決められるおごそかな儀式です。
(納涼祭)
7月に祭典が行われます。昔は、青年団などによる余興が盛大に行われていましたが、いつ
の日にか止んでしまい、現在では長生衆が参拝して祭祀がとり行われています。
納涼祭といえば世間一般には、納涼大会とか花火大会などと言って、暑い夏の日に涼を求め
て少しでも快適に過ごすための催しぐらいに思われがちですが、日吉神社の納涼祭は、納涼と
は言うものの、この時期田んぼに十分に水を補わねばならない時期であり、また稲の害虫を追
い払わねばならない時でもあるところから、氏子中がこの日は斉戒(心身を清める)して氏神様
にお祈りを申し上げ、その後に氏神様を交えて楽しく、涼しく過ごさせていただくお祭りの日なの
です。
(八幡祭・出来日待祭)
9月に日吉神社に合祀されている八幡神社のお祭りが行われます。出来日待ちと言うのは書
いて字の如く秋の収穫をはじめ五穀豊穣を氏神さまに祈り、日を待つ祭典です。
このお祭りでも「御神湯」の祭事があり、氏神さまに湯をささげ巫女さんが湯立て神楽を奉納さ
れます。
(大祓祭・冬至祭)
12月に祭典が行われます。大祓祭は禊祭ともいわれ1年を無事に暮らせたお礼と厄ばらいを
行ってもらう祭典です。この日も各戸から供えられた人形を川へ流す祭事があります。
また、冬至祭、宗忠神社祭も併せて斉行され、社務所には宗忠神社の掛け軸がかけられます。
2.山の神
(下山の山の神さんの行事)
下山には、大谷と瑞岩寺裏山の2ヶ所に山の神さんがあり、毎年1月3日に行事が行われま
す。(昔は3日と4日でした。)
行事の内容は、当日早朝より宮守さんがご神木にしめ縄を張り、竹でつくった供え物台に御神
酒、洗米、鏡餅、お魚等をお供えして山の神をお祀りされます。 |
|
下山の住民である私たちは、家々に男性が、その家の男子の数の倍の「つと」と餅、たつくり、昆布、
くり、干し柿、みかん等山海の珍味のお供え物を持
ってお参りします。 |
つつじの枝にチレとともにかけてご神
木の近くに奉
納し、山の神さんに子孫
繁栄、五穀豊穣を祈願しま
す。
おりから山の神さんでは火が焚かれ、おさがり
の餅などを焼いて、それをいただき、一時を過ごした
のち、もう一方の男子人数分の「つと」を持ち帰って
きます。
持ち帰った「つと」は、1月5日のつくり初めの日に田
んぼに鋤を入れ、神社からいただいた松の枝と共に
お祀りして、その年の豊作を祈願します。 |
|
下山では、こんな行
事が昔から行われ
てきま
したが、いつの時代から始まった
のかは残念な
がら不明です。
また、山の神さんの行事は、内容こそ
違え、全
国各地で行われています。都会
の真ん中でもお
祀りされているところが
ありますが、そこは昔農
村であったこと
を物語っています。
|
|
(山の神とは)
大昔のことになりますが、原始、古代のころ、私たちの祖先は、だんだんと集団で生活するよ
うになり、それぞれの集落を形成していったと言われています。そこには秩序や統制があり、文
化が生まれ、人々が崇敬するものや信仰するものが出てきたと考えられています。
人々は野や山で暮らし、自然の猛威を恐れ、自然をあがめる中で、天に一番近い山を崇敬し、
そこに神がおわすこととして山の神を祀るようになったと言われています。
さて、山の神は女の神さまです。多くの文献では、この女神は醜女でありましたので、ほかの
女性を見て自分の醜い姿に常々気を病んでおられたそうです。そこで、魚の中で一番醜い顔を
しているオコゼを山の神に供え、ご機嫌とりをしたと書いてあります。
山の神はオコゼが大好物と言われる所以はこんなところにあり、子孫繁栄と五穀豊穣の神さ
まとしてお祀りされるもとになりました。
下山の山の神さんでは、松の木の三つ又を男性、二又を女性と見立てて神前を飾りますし、女
性が参らないのは山の神さんに屈辱感を与えないためだということのようです。
また、「つと」を持ってお参りし、土を入れて持ち帰る所以は定かではありませんが、一説には
オコゼに似た「つと」をつくり、土をつめるのは妊娠させたように見せて子孫繁栄を願ったとも言
われています。
いずれにせよ、それぞれの家に山の神さんのご利益をいただき、子孫の繁栄と五穀の豊穣を
お願いしたものと解釈できます。
このように、山の神は、民俗文化と神への崇敬が一体となったもので、祭祀のやり方はそれぞ
れ違いますが、全国津々浦々でお祀りされています。私たち下山の祖先が昔からお祀りしてきた
2つの山の神さんも、その由緒を継承して行事を続けていきたいものです。
【山の神神殿】 |
【神木に「つと」奉納】 |
【「つと」に土入れ】 |
3.お日待ち
下山には「お日待ち」と言われる行事があります。毎年2月6日の夕方に当番宿の家に集まり
翌朝までその家で過ごす行事です。
私が子供の頃に村の古老に聞いた話では、昔下山に大事件があって村中が夜を徹して大騒
ぎをした事があったそうです。それが2月6日の夜です。どんな事件なのか? いつの時代の事
なのか?その人にも分からないとの事でした。随分昔の出来事だった様です。この事を忘れな
いように毎年2月6日の夜、各家の戸主が集まって徹夜をしょうと始まったのが、「お日待ち」の
起源だそうです。その後長い年月を経て色々と形が変わり今日まで引き継がれて来たようです。
初めはそうでもなかったのでしょうが、特別する事も無く夜を明かすとなると、酒でも飲もうかと
なり、酔いが廻れば寝てしまうという事となります。
昭和の初め(昭和18年頃まで)の頃「お日待ち」は夕方より宿の家に集まります。
宿の家は床
の間に榊の花を生け、「天照皇太神宮」の掛け軸を祀り、神酒、洗米、灯
明を供え、垣内の全員
が揃うと、お神酒を戴き、宴会が始まります。夜が更けるとお
膳を片付け、垣内の人数分の枕や
蒲団を敷き、宿の家で朝まで眠ります。(枕や蒲団の足りない分は近所、親戚で借りて人数分を
揃えたそうです。)夜明けと共に起床して自宅に帰り、嗽、手水で身を清め、氏神様へ参拝して無
事2月6日の夜が過ごせたことを感謝して「お日待ち」の行事が終ります。このしきたりは随分長
く続いていたようです。
昭和19年になると大東亜戦争の敗戦が色濃く日本の各地で空襲を受ける様になり、宿の家
で泊るようなのんびりとした事は止めようと言う事になりました。戦後、世の中の移り変わりが激
しく「お日待ち」も宴会が終了すれば各自宅に帰り、翌朝氏神様に参拝することになりました。
氏子のみんなが初心に帰り、神様に地域や家族の安泰を祈る心を持ち続けたいものです。
4.龍王山と雨乞い
(龍王大明神)
米を作るには多くの水が必要ですが、昔は天水田と呼ばれる田んぼもあり、溜池も現在のよ
うに整備されていませんでした。まして、地下水をポンプで汲み上げて田用水にするなど考えら
れないことでした。
20日も晴天が続けば、田の水は干しあがり、田んぼには亀裂が入り、稲は枯死寸前となり、
雨が降らなければその年は大凶作になってしまいます。
|
先人たちは大変困窮し、神頼みとして氏神さまに
お参りして雨乞い祈願をしたと伝えられています。
日吉神社の境内では、大人も子供も「雨たもれや、
たもれや」と声高らかに踊り、その踊りが終わると
夕暮れ時からたいまつをかざし、龍王山へ登り、同
じく「雨たもれ」と祈願してたいまつを1ケ所に集め、
火を焚いたと言われています。 |
龍王山は、大谷の山の上にあります。
大谷の下
の池のところから左手にとり龍
王山へ登る道があ
りましたが、今では雑
木が生い茂り通れなくなり、
広野台団地
北側の関電鉄塔の管理道路を使って
登る
ことができ、毎年区事業で行なわれる境
界ま
わりで登られています。龍王山には龍王大明神が
祀られ、毎年6月に宮守さんにより祭祀がとり行わ
れていますが、小さな祠のようなところに壷が伏せ |
|
てあり、その壷の中の水がなければ、その年は水不足になると伝えられています。
(雨乞い祈願の記録)
実際に雨乞い祈願が行なわれたのは近年では昭和14年(1939年)で、「雨乞祈願祭諸経費
精算帳」と書かれた記録が残っています。その中には、「本年ハ稀有ノ大旱魃ニテ植付後降雨ナ
ク農家ハ困苦シ至ル所ニ水揚作業ニ盡力セシガ水源ニ水ナク非常ニ困リ最早手ノ及バザル状
態トナリ八月十三日組頭会開催致シ雨乞祈願祭執行ノ件協議ノ結果満場一致可決 早速翌十
四日ヨリ雨乞祈願祭執行致シ社掌乃祈待ノ下ニ氏子総代始メ各役員及ビ一般民参列シ第一回
ノ祈願祭ヲ執行セリ 昭和十四年八月 区長記ス」と記述してあります。
さらに記録をたどっていきますと、
8月14日 祈願祭が行われ、その日より5日間一般区民が随意神社へ祈願に参拝されてい
ます。
8月19日 第2回祈願祭が午前7時より日吉神社において行われ、今度はその日から5日間、
各垣内毎に一昼夜こもり、朝6時に交代して祈願したとあり、また午前に龍王山に
一同が来拝してのち、日吉神社にこもられています。
8月24日 第3回として午前7時より日吉神社において雨乞返上式が行われています。これは
22日と23日に少量の降雨があったため、古式に従い一時返上されたものです。
8月26日 午前中に龍王山の壷の伏せ替えが行われています。
8月27日 第4回祈願祭が行われ、この日より4日間笹幟りという行事が行われました。下山
を北側と南側の2つに分け、隔日に各戸が笹幟りを持参の上、日吉神社に集合し
て行列をくんで龍王山へ参拝されます。この時には鐘や太鼓を打ち鳴らし「雨たも
れ、たもれや」と声を出しながら行列が続いたということです。
9月 1日 一般笹幟り行事が行われ、午前7時、一般区民が笹幟りを持参して参集。社掌(宮
司)以下一般区民が龍王山に参拝されています。
9月10日 午前に祈願返上式が行われています。
午後から雨喜び式が行われ、一般区民が
参列。御神酒がふるまわれました。
記録では8月22日と23日の少雨以外にいつ雨が降ったかは記載されていませんが、9月10
日までの直近に恵みの雨が降ったと推察されます。
それにしても当時の区民の皆さんは大変なご苦労をされたものです。
5.千燈祭
千燈祭の縁日は、10月13日とされており、このお祭りの由緒(謂れ)は次頁の「表白」にもあ
りますように祭神の毘沙門天王は、大昔は日吉神社にお祀りされていましたが、数奇な災難や
めぐりあわせを経て九品寺のお祀りされるようになりました。その時期がどうやら享保年(1716
年〜1735年)のいずれかの年の8月13日だったそうです。
毘沙門天王は、現在、九品寺本堂内陣に向かって右側のお厨子の中に安置され、檀徒住民
が五穀成就に感謝して福寿増長と開運をお祈りする象徴像なのです。
ところで、神社のお祀りされている祭神を寺院にお祀りしたりすることに対していぶかる人があ
るかも分かりませんが、昔は(近世以前)神仏習合といってよく行われることで決して不思議なこ
とではありませんでした。
さて、以前は「表白」のご教示のとおり本堂内で「なたね油」を千個の土器に注いで点燈、献上
しておられました。また、イベントとして藁人形の造りもの作って出来栄えを競い合ったり、各種
余興を催して近隣からのお参りや見物客をたくさん迎えて賑わっていましたが、近時はローソク
による献燈となり、その燈数は300程度となっています。時代の経過とともにお参りする人もだ
んだんと少なくなり、少し淋しい千燈祭になってきて
いましたが、住職さんや寺院関係役員さんの努力と
お計らいで、また賑やかで明るく楽しいお祭りを取り
戻しつつあります。
ちなみに、平成18年(2006年)
には、檀家個々から88個の提灯の奉納によって境
内で献燈し、本堂内では400燈のローソク献燈によ
り明るく美しく厳かな雰囲気のなかで千燈祭が執り行
われています。 |
|
(千燈祭のいわれ)
毘沙門天王表白
当寺に安置したてまつる毘沙門天王は、運慶の御作なり。折も、この尊像は当所の氏神十禅
子の傍らに大堂あり、正法山浄土寺と号す。其の由来を尋ぬるに比叡山延暦寺、御草創のみ
ぎり、当所に山王十禅師並びに伽藍等ご建立なさしめたもう。本尊観世音大士、脇立不動明
王、毘沙門天王なり。天正文禄の間、諸国兵乱の砌り、本尊、並びに両脇士等、う勢させ給う。
其れより村人、老宿、昼夜たづね求め奉ると言えり、其の御座所をしらす。 之に依って氏子
何某、浄土宗に通夜する事、数度に及び、祈り慕う。ある夜、夢に光明輝くとして毘沙門天王、
現じましまして告げて曰く、吾は是れ須弥大山の北にあたり安尼曼挐城の主、毘沙門五穀成就
擁護の神なり、我を祭り千燈を献じ、恭敬礼拝し祈る者あらば五人王子、八人兄弟、二十五人
の使者を遣わし、不信懈怠の門を制し信心堅固の者に諸々の障礙を除き病難を救い、富貴開
運の願いを成就なさしめんと告げて曰く、何某信心肝に銘じ、天王の還幸あらわれと、渇仰随喜
の泪と共に夢、覚めたり。尚、余光堂内に薫じ不思議の有様なり、早速、家に帰り村内に披露
し、千燈を献じ、祭礼修行の法式を願う。頃は、享保年中八月十三日なり、尊像を当寺に遷し奉
り、幾久しく守護を願う。福寿増長、霊現新たなる尊像なり、しかりと雖も世に知る人まれなり。
開運守護の神、御拝礼、御拝礼。 |
毎年、縁日(千燈祭)の日に和尚さんが読誦される毘沙門天王の上欄の表白文を安易に読
み換えると次のようになります。
毘沙門天王の語り
当九品寺に安置している毘沙門さんは、かの有名な鎌倉初期の彫刻家、運慶が彫られた仏
像です。この仏像、元は下山の氏神さんと同じ敷地内に祀られていましたが、1573年〜1595
年(天正、文禄の間)の戦乱によって行方不明になられたことがあります。そこで全ての住民が
そのお姿を探し求めましたがなかなか見つかりません。このため氏子の一人が祀ってあったお
堂に幾度となくこもってお祈りしておりましたら、ある夜突然幻のごとく毘沙門さんが現れて次の
ようにお告げになられました「私は、須弥山と言う仏教界にある中心の大山で、主に北方の世界
を護る役目の毘沙門天です。村人の皆さんが私を崇めその証として千個の燈火を献じて祈られ
たら、私だけでなく同僚や多くさんの友人弟子達の応援によって数々の困難を取り除き、病人を
救って繁栄と幸せの願いをもたらすことができるでしょう」と。
このお告げを聞いた当の氏子は正しく毘沙門さんのご帰還の証と喜んでいるうちに夢から覚
めました。早速このことを村人に知らせて千燈祭を行おうと呼びかけたのです。1716年〜173
5年(享保年中)でのある年の8月13日、毘沙門像を九品寺にお移しして【このところは夢と現実
が交錯した微妙なさわりの部分です】長くお護り頂くことになった灼な尊像なのです。このことは
知らない人もあると思います。先ずは開運と守護の神(毘沙門天)を拝みましょう。拝みましょう。
ページのトップへ戻る