「寺子屋」という言葉は、私達のよく耳にする言葉ですが、昔の子どもの教育施設です。この
下山にも実は寺子屋が天保2年(1831年)から九品寺と瑞岩寺の二ヶ所で開かれていました。
生徒のことを「寺子」と呼んでいましたが、その寺子の先生は、お寺の僧侶が主に携わっておら
れました。そうしてもう一つ言えることは、寺子屋は今日の私塾のようなもので決して制度的な
ものではなく、言うなればお寺の僧侶のアルバイトであったようです。この意味から今日で言う
「学資」も必要でしたが、下山の場合、他の在所と比較しても寺子の数は案外と多かったように
見受けられます。貧しい農家の土地柄でしたが、この下山は親や子の向学心が強かったので
しょうか。
以上の寺子屋が明治6年(1873年)までの43年間も続けられましたが、これに前後するよ
うに近代国家に目覚めた明治政府が、明治5年(1872年)に「学制」を頒布したり、太政官布
告を発布して「国民は皆教育を受けなければならない」という主旨の制度化にむけて動き始め
ました。この趣意に沿うようにして明治7年(1874年)3月、伴中山の智禅院で下山村と伴中
山村との連合で余力学校が開設されました。この余力学校が、明治14年(1881年)までの7
年間にわたって続けられましたが、翌年この余力学校から下山が分離して下山学校を設立し
ました。分離した理由は十分なことは分かりませんが、学舎が荒廃してきたことや下山側の通
学距離の問題ではなかったでしょうか。
その伴中山村から分離してできた下山学校が、現在、九品寺の前にある県道沿いの駐車場、
ここに建っていた以前の、そしてもう二つ前の下山公民館(後には下山事務所とも呼んでいた)
の建物でした。その建物が明治14年(1881年3月に竣工していますが、そこで新しく下山学
校が始められています。その後、文部省や地方の制度の変更や介入によって色々と修正が
加えられてきたようですが、以後明治37年(1904年)に伴谷尋常小学校が伴中山の現在地
に決められて、建設されるまでの間23年間ほど下山学校が運営されてきています。明治37
年(1904年)3月、ようやくここにきて一村一学校の時代をむかえたことになりました。
以下これらの参考となる資料を添えますと次のようです。
【寺子屋 九品寺】 |
【寺子屋 瑞岩寺】 |
天保2年(1831年)から明治6年(1873年)までの間、九品寺と瑞岩寺で寺子屋がひらか
れましたが、年次ごとの寺子の数は一部を除いて不明です。推定するのに九品寺と瑞岩寺あ
わせて30人前後の寺子数だったようです。なお、寺子の男女比をみると、どうやら未だ当時は
圧倒的に男子が多かったようです。
習い事の中心は、読み方と書き方(習字)であったようです。
明治7年(1874年)から伴中山
の智禅院で伴中山と下山の連合の餘力
学校
が開かれています。これとは先に
「学制」が明
治5年(1872年)に
発布されています。
|
【餘力学校 智禅院】 |
伴中山の餘力学校と分かれて下山学校を設立開業されたのが、明治14年(1881年)3月
でした。 |
【下山学校(現九品寺駐車場地内)】 |
下山学校児童の増減と就学率
年代
|
学齢児童数
|
就学児童数
|
就学率
|
男
|
女
|
計
|
男
|
女
|
計
|
明治14
|
26
|
38
|
64
|
18
|
8
|
26
|
40.6
|
15
|
27
|
35
|
62
|
21
|
19
|
40
|
64.5
|
16
|
28
|
35
|
63
|
23
|
19
|
42
|
66.7
|
17
|
26
|
34
|
60
|
23
|
22
|
45
|
75.0
|
18
|
35
|
38
|
73
|
24
|
23
|
47
|
64.3
|
19
|
36
|
40
|
76
|
23
|
12
|
35
|
46.0
|
|
この当時の学年編成は、学校を上下二等に分けて
下等小学(6〜9歳)4年制
上等小学(10〜13歳)4年制とし、上下とも8級に分けられ、入学すると8級から
始まり6ヶ月ごとに1級づつ進級して最上級の1級に進むことになっていました。
したがって、上、下小学校を履修するには8年を要したことになりますが、実態はどうだった
のでしょうか。
対象児童の数や就学率においても今日から比較すると「驚き」です。
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