山村城址(上山城)

    山村城址(上山城) 
     山村城址は、水口町山城山の高丘にあり、現在は私有地に属し山林となる。城址は二箇所
   に分かれて一を東の丸、一を西の丸と称する。東の丸は東西北端にて24間約48メートル、南
   端にて2 0間約40メートル南北40間約80メートルの梯形をなし四周に築堤を環らす。

   その東側のもの幅一間半約3メートル、南側 
   幅7間約14メートル、西側幅四間約8メート
   ル、北側幅5間約10メートににして高さ西北
   十尺約3メートル、東南五尺約1.5メートル
   なる平地の北端に廃井がある。東側入口設
   く、東南の二方急傾斜なし約三十尺約10メ
   ートルを有する。西の丸は大体菱形をなし、
   西東15間約30メートル、南北22間約44メ
   ートル、東南の 二方に築堤を存する。そのう
   ち九尺(約3メートル、高さ五尺約1.5 メート
   ル、内に廃井がある。この地西北側は天然

   の高地にして東南は断崖あり。
   附近の地名に法寺、天王寺 あり。
   里人傅いうこの城は佐々木六角氏
   の配下の士の築く所にして、子孫相
   承永禄(1,568年)9月織田信長
   に亡ぼされる。
   その後山村信濃守本、 村を領しこ
   の城に住ませしが、正徳2年(1,7 
   12年)加藤和泉守の水口城提封に 
   より終に廃城となる。亦文政年間
   (1,818年から1,829年)本村の
   人信濃の国善光寺に参拝の帰途
   松本に信宿せしに旧領主山村氏の
   家臣来たりて当地の近況を問う。

   また、慶応年間(1,865年〜1,867年)同氏の家臣3人当地に来て、庄屋及び寺僧に就旧
   関係を調査せしに、他日の煩累を處り1人の事 実を陳述するもの無かりし。
  (1) 城址(上山城址)関係伝記
   @ 所在地
     滋賀県甲賀市水口町山上の山
   A 城主
     前城主山村信濃守左衛門良道第一子山村十郎右門良宗一子山村信濃守良候木曽福島の
   代官として移封となるに依り、上山新八郎城主となる。上山新八郎は甲賀武士五十三家の内
   の一家なり。上山新八郎第一子上山徳三郎は伊賀上野新田之移封。上山城主第一家臣に田
   中傅八郎宗秀あり。
   B 甲賀十五勇士
     佐々木近江守六角定頼の叔父佐々木近江守義実の家臣十五士を将軍義晴の所望により
   廷に遣わされそのため、朝廷より従四位下、近江守を賜る。十五勇士下記のとおり。
           (一五番) 馬渕源太郎實賢21歳
           (十四番) 山内宗十郎成時20歳
           (十三番) 澤田喜太郎忠宗18歳
           (十二番) 乾次郎三郎16歳
           (十一番) 和田兵吉14歳
           (  十番 ) 田中傅八郎宗秀27歳
           (  九番 ) 植村久作15歳
           ( 八番  ) 藤堂善兵衛尉實成31歳
           ( 七番  ) 高木右近義清13歳
           ( 六番  )永原才次郎高光21歳
           ( 五番  )河端左近太夫輝綱19歳
           ( 四番  )谷口藤一郎15歳
           ( 三番  )匹田十五郎17歳
           ( 二番  )前田孫太郎實頼21歳
           ( 一番  )和爾豊五郎實勝29歳
     以上十五氏なり。その田中傅八郎宗秀は当村にある田中氏の遠祖なりと傅わる。(以上は
   上山至郎氏所蔵の文献による) 
   C 築城時期
     現在、田中家に伝わる城の瓦により察するところ460年前後と思われる。東の丸、西の丸と
   に分かれている。東の丸は遠望もよく戦に適し、西の丸は女官、婦人、下童の居住を主として
   いたように考えられる。銘入瓦の製造年号三点を先祖より伝わり大切に保管する。
   享禄四年自三月二十七日至六月十六日之也
   享禄四年は(1,531年)で今からおよそ480年前である。上山城は元亀年間(1,570年)織
   田信長により焼失する。この付近に天道寺、宝台寺の2寺院があったが先に信長によって焼失
   されたようである。また、城跡東へ二丁の所に天王山青雲寺跡がある。寺の口に貞享六年の
   銘がある。青雲寺跡に地蔵堂も現存する。また東北へ十丁の所に天台宗白山寺及び白山権
   現あったがこれも信長の兵火により焼失している。白山寺の本尊は十一面観世音菩薩で現在
   当村の玉台寺に安置されている。
   (追記)
      伊賀上野新田に移封になった上山徳三郎氏の末孫上山至郎氏(三重県伊賀上野市在住)
    が、城跡等同地について詳細に踏査された。その時上山家の家譜の写等種々資料を出して
   下さったので上記の様子までわかった。

ページトップへ戻る