(1)上水道は、昭和30年代に設置された。
(2)下水道は、平成10年ごろから幹線工事が実施された。
(3) 圃場整備事業
耕地の整備事業として、昭和47年に小野谷の千代坊地先を県単独事業として14ヘ
クタールと普通河川小野川の改修工事が実施された。
また、昭和61年より整備可能な圃場を県営圃場整備事業として施行され、それと合
せて県道改修の用地を確保して平成8年度に完了した。
@ 県営圃場整備事業の概要
ア 事業の名称 滋賀県営圃場整備事業(伴谷地域下山、山、伴中山が対象)
イ 事業面積148.0ヘクタール
ウ 総事業費事業費1,887,000千円事務費105,729千円
合計1,992,729千円
エ 事業期間昭和61年度〜平成8年度
オ 事業費負担区分
工事費
事務費
金額
国費45.0%
50.0%
902, 015千円
県費32.5%
25.0%
645,875千円
地元22.5%
25.0%
カ 地域と地積(土地利用計画)
水田
139.8ヘクタール 畑
2.0ヘクタール
道路、水路等
6.4ヘクタール 合計 148.2ヘクタール
A 山工区の概要
農用地
従前地 68.8ヘクタール
換地 64.5ヘクタール
非農用地
従前地 0.2ヘクタール
換地 0.4ヘクタール
道路等
従前地 2.5ヘクタール
換地 15.3ヘクタール
合計
従前地 71.5ヘクタール
換地 80.2ヘクタール
(全体事業面積の54.19%)
B 経過と現状の課題
日本経済が成長するとともに、昭和36年農業の発展と農業従事者の地位の向上を
目指して、農業基本法が制定された。生産費所得補償
方式により、比較的安定した米
価によって、稲作を生計の中心としていた山区では、米の増産運動に取り組んできた。
農業基本法に示された選択的拡大による畜
産や果樹についても取り組んだが、土質等の
関連から発展せず、農業以外の所得を求め
つつ、米は機械化によって省力化する兼業化
が進んだ。
こうした中昭和4
3年から始まった第一次
過剰米対策で米の生産調整が試行される等
米を巡る情勢が様変わりした。
農業基本法の制定とともに始まった農業構
造改善のパイロット事業も進み、牛による耕
作から耕運機、トラクターへと進展してきた機
械化も、従前の土地のままでは限界が見え、
このままでは、時代の進展とともに取り残され
てしまうとの思いの中、すでに団体営で整備さ
れた八田、春日を除く
下山、山、伴中山の一部
が、上記のとおり大規模な県営によるほ場整
備に取り組んだ。
今後の課題としては、山区の土地はヒトデ |
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のように山間地に水田が延びており、各水系は13箇所にも及んでいる。この為、更な
る土地の集合化や、水利の一本化について検討を進める必要性が高まっている。
(4) 宅地造成事業
昭和45年から東宝ランド鰍ノより第1水口台が小松尾地先の山林と一部耕地で住
宅地を造成されたが、現在、そこは1戸も建てられていない。
次に第2水口台として菖蒲谷、栗ノ木谷、第3水口台として栂畑地先、第4水口台と
して東谷・白山・菖蒲谷・畦八丁、第5水口台として岩谷、菅谷の山林と一部耕地を取
り入れ造成された。5年間に第1水口台から第5水口台まで3,200区画余の宅地が
造成され、現在では6割近く建てられている。
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(5) 工業団地の造成
昭和45年に水口、 町の要請で滋賀県
都市開発公社により、菅谷地先に笹ヶ丘
工業団地が造成された。
また、平成になって住宅都市整備公団
により、近江テクノパーク(ひ
のきが丘工
業団地団地)が菅谷、前の谷、西谷及び
伴中山区地先を含めて、約8
5ヘクター
ル(山区40ヘクタール、伴中山区45ヘクタ
ール)で造成され、
現在多くの企業が進
出している。 |
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(6) ゴルフ場の造成
平成4年に、北谷及び春日区、伴中山区地先を含めて、ゴルフ場開
発が山林一部
耕地を取り入れ造成され、平成12年4月オープンした。
(7) 小学校の分離
従来の学区は八田、春日、下山、広野台東区、広野台西区、伴中山、
山、桜ケ丘区、第3
水口台区、第4水口台区、菅谷区の児童900人
以上が伴谷小学校へ通学し、県下で6番
目のマンモス校であった。これ以上は収容できないため、小学校が分離され、当区の東谷
に学校
敷地を造成、平成15年開校した。分離校には、桜ケ丘区と第4水口
台区の300人
の児童が通学する。
新設校の候補地として、当初、泉・日野線の
桜ケ丘より南の丘陵地が上がっていたが、
新設校と伴谷小学校の将来の児童数バラン
スを考慮して第3水口台の児童は新設校に
編入しないことを基本に候補地選定を進め
た。しかし、諸般の事情で候補地は振り出し
に戻 った。次に第2、3の候補地として山・
松尾線(新道)の南側丘陵地と向かいの現
在地が上げられた。いずれも山区内の土地
であるので、山区児童の通学区は新設校と
決められていた。理由として新住民と旧来の
住民との交流の重要性を言われた。
ところが山区では、親や兄弟、あるいは祖
父母が通った伴谷小学校へ通うことで、近
年心配される親子、孫たちとの絆が家庭内
でも大事にされることを望みたい。近くても
新設校への編入に反対意見が多く、特に上
村では新設校を通過して伴谷小学校へ通う
家庭もあるが、山区の児童を両校に分ける
ことは子供会活動やPT A活動にも支障をき
たすのでまとめて伴谷小学校への通学を希
望した。
結局山区児童は将来は別にしても、区内に
新設校がありながら伴谷小学校へ通うことに
なる。しかし、山区内の学校のた
め老人クラ
ブや他の人々も旧来の田舎の良い面を新設
の伴谷東小学校へ教えに行き協力をしてい
る。伴谷東小学校からも山区内の学校
とし
て依頼もされているようである。 |
伴谷小学校
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伴谷東小学校
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