山区の治政の移り変わり

    本地域は、古くは山直郷にして山直氏の領域であったようである。山 直の言葉は戦後の伴谷  
   小学校の校歌が「やまなお」で始まっている。
     旧柏木村、貴生川町、大野村、伴谷村で、これらの郷は柏木荘、倉田 荘、嵯峨荘、杣荘に分
   かれている。(三大寺、牛飼、山上、杣中、内貴、宇治河原(今の宇川)、六邑、龍法師、柑子、
   磯尾、野田、野尻、新宮、 倉治、虫生野、九邑、森尻、深川、塩野、杉谷、稗谷、葛木、寺庄、
   七 邑、神保、隠岐、佐治、平野、伊佐野、五邑、八田、春日、下山、
伴中 山、山五邑、松尾、中
   畑、新城、今郷、中村、上田、六邑の計三十八邑である。) 
   @ 山直氏の系列(山直氏系図) 
     山直氏は、大彦命を祖とする狭々貴山君の一族山直天御影命11世 の孫山代根命の後裔の
   山直氏である。この山直郷は、山直氏の本拠あったので山直氏が治めていた。
   A 沙々貴山君氏と宇多源氏の関わり
     神崎郡、蒲生郡に勢力のあった沙々貴山君は、宇多天皇を祖とする近江源氏佐々木氏との
   関わりで、宇多天皇の王子敦実親王は子左 大臣源雅信の子扶義を養子とし、扶義は近江守
   等を歴任しその子成 ョが父の任地佐々木荘に住みついて同族化していった。
     本来の狭々貴氏は、近江源氏佐々木六角氏の居城であった観音城 の西側山すその沙々貴
   神社の神官をつとめるようになった。一方、 佐々木六角氏は近江全域を治めるようになってい
   った。
   B 源義光私有地の寄進(源氏系図写義兼記載のもの) 
     清和天皇を祖とする義光は、清和天皇から5代のョ義の三男で新 羅三郎義光である。ョ義
   には、長男八幡太郎義家、二男加茂次郎義 綱、四男は園城寺に入った西蓮坊快誉阿闇利で
   ある。その義光の同 族である鎌倉幕府を開いた源頼朝も清和源氏である。
     前刑部丞源義光は、永久2年(1,114年)8月21日私領であった山村郷今( の山、伴中山、
   下山)柏木郷を弟のいる園城寺金光 院の燈明料として寄進し、その後60年間金光院の領有
   となる。そ の60年間には、柏木義兼も領した時期もあるようである。柏木義 兼は、源義光の
   孫義定が東浅井郡山本にあって山本義定と号し、そ の子兄山本冠者義経、弟は柏木郷を根
   拠地としていた柏木冠者義兼 ある。
   C 土山から山中氏の進出(山中氏系図) 
     金光院領であった時期は荘園ではなかったが、その後柏木御厨に 入り、その時期は長寛2
   年(1,164年)以降柏木御厨は伊勢外宮 領として立荘された荘園である。
     その後、土山町山中を本とする御家人で鈴鹿関警護役をつとめて いた山中氏は、厨内上山
   村友行名を領有する。しだいに柏木御厨に 勢力をもち鎌倉末期には本拠を柏木郷に移し、上
   山村郷観音寺別当 職、柏木御厨総検断職を宛
行われ、さらに御厨内各郷内官幣使上下 向供
   給雑事信者料をざす。
     柏木御厨内祭主保の保司に補任され荘園 内で大きく勢力を伸
ばしていく。その山中氏は、敏
   達天皇を祖とする橘諸兄の後裔修理亮義清が山中氏を名乗ったのが始まりである。 
     16世紀になると山中、美濃部、伴という山中三方
中による実質 的な支配となる。室町時代足 
   利将軍義尚の近江親政をなやました。 甲賀21家、又は53家へと発展していった。
     義尚の近江親政は、佐々木六角氏を打つためであったが、六角氏 は山中氏と組んでいたの
   でなかなか打てずに義尚は陣中で病没した。山中氏と六角氏との関係は、佐々木六角氏弟九
   代六角久ョの側 室山中高俊の娘であ
った。その子高ョは幼少期山中高俊が土山で養育した。 
   その後も側で見ていたのである。
     一方、甲賀53家の一つである当地区の上山氏上山新八郎は、長 享の乱に戦功を立ててい
   る。また、上山氏の居城であった上山城は 山上の山の高丘にあっ
た。この城は上山氏の築城
   であったようであ る。その間に伴谷一帯に勢力のあった伴一族が、橘六木工助ョ俊の知行地  
   の中山村の座禅房名の乱を企てたが、佐々木六角氏は、下知 状を出してことはおさまった。
   その後ョ俊は浄俊と改名して山中総領家を継子範俊に譲与している(山中文書) 
     1 .上山 村郷友行名田畠、山林、荒野、観音寺、地蔵院主職等 
     1.中山村郷石武名屋敷、山林、荒野等
         上記応安7年(1,374)又同文書
         山中善俊は三福丸に譲与したもの
     1.上山村友行名内スカ谷1町5反半、その他山中氏歴代の譲状多 数あり。
   D 戦国時代から豊臣時代へ
     100年近く続いた戦国時代も終局を迎える頃になると、足利幕 府もゆ
れにゆれて弱体してい
   る時、織田信長は、足利将軍義昭を奉 じて上洛の途につき、まず天台寺院を焼打している。
     次に、石山本願寺と縁故のあった近江源氏佐々木六角氏を攻めた。その頃になると400年
   間近江に根をおろしていた六角氏も重 臣をだまし討ちしたことにより、家臣も城主から離れる
   ようになっ ていた。信長の前に歯が立たず、その居城観音城も落城の憂き目を見たのである。 
   そのあおりにより、山区の廃寺白山寺も兵火により 焼失している。
     また、六角氏の家臣上山氏の居城と廃寺東伝寺と共に兵火により 焼失した。
     その後、信長は本能寺で明智光秀に亡ぼされて信長に変わって豊 臣秀吉が天下を取り、こ
   の地区は岡山城を築城した中村式部小輔一 氏が城主となり治めた。天
正13年(1,585年)
   岡山城初代城主。 次に天正18年(1,590年)増田
長盛岡山城二代城主となり、次 に文禄4
   年(1,595年)長束大蔵大輔正家岡山城三代城主となり 治めた。
     しかし、関が原の戦で長束正家は西軍についていたが、東軍徳川 家康軍の勝利により西軍
   は敗れて、正家は家康軍の池田長吉に攻め られ城に入ることが出来ず蒲生郡中之郷にて自
   害した。城は兵火に より焼失する。
     慶長5年(1,600年)9月その後一時期伴上野介、慶長7年(1,602年)林傅左衛門、慶長1
   3年(1,608年)松平隠岐守(伊勢桑名城主)、元和4年(1,618年)内藤紀伊守が治める。 
   寛永4年(1,627年)代官の支配となる。寛永10年(1,633 年)土井大炊頭、下野国古河城
   主治める。宝暦3年(1,675年)代 官吉川半兵衛支配となる。
     天和2年水口城築城により石見の国、石見城主加藤内蔵助朋友水 口城
初代城主となる。
   禄8年(1,695年)下野国壬生城主鳥居 明英水口城2代城主となる。加藤氏は壬生城主とな
   る。3代城主は 鳥居忠英がなり、加藤氏は再度水口城主に帰り鳥居氏も再
び壬生城 主となる。 
  
正徳2年加藤和泉守嘉矩4代目城主となる。以後5代明 経、6代明(あきひろ)7代 明堯(あき
   たか)8代明陳(あきの ぶ)9代明允(あきまさ)10代明邦(あきくに)11代明軌(あ きのり)12
   代明実と世襲するが明治4年廃藩となる。
     明治4年11月(1,871年)大津県管轄となる。明治5年1月
(1,872年)滋賀県となる。明治
   5年4月7日区制施行により第2区に、明治18年(1,885年)7月1日戸長役場を春日に定め 
   る。
     明治22年町村制施行に当たり、伴谷村となり、村役場を伴中山 に置く。
     昭和30年4月1日(1,955年)町村合併
により、水口町、貴 生川町、柏木村、伴谷村が合併
   して水口町となる。
     平成16年10月(2,004年)平成の大合併により、水口町、 土山町、甲南町、甲賀町、信楽
   町が合併して甲賀市となる。

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