山村神社 

  (1) 創草   
     山村天神は、仁寿年間(850年代)山村潮音寺の守護神として勧請 されたものではないかと 
   思 われる。

  (2) 所在
    甲賀市水口町山字田引
  (3) 祭神
    菅原道眞少彦名命(沙玖名彦命)すくなひこなのみこと
  (4) 社殿
    一間社流造  間口一間二尺  奥行一間南面
    西暦947年天歴3年、菅原道眞の子孫是兼によって初めて社殿が造営されるに及ん
    で菅原道眞を合祀したと思われる。


 戦前の山村神社

                                          

     大鳥居

        大鳥居からの参道と青銅狛犬
                     釣鐘堂

本殿と拝殿

   (注) 昭和18年太平洋戦争のまっただ中、金属回収が行われ、神社、寺等の銅製品が
          徴用された。山村神社も、神牛(本殿前)、青銅狛犬、釣鐘、火鉢等が供出された。
          釣鐘は、昭和21年返還され、中に銘が刻まれていた。
          寄進者江州甲賀郡上山村天神願主三ヶ村惣中
          寛永二年酉年十一月吉日
          同国蒲生郡八日市金屋村堤善九衛門直裁

  (5) 由緒
     甲賀郡志下( 巻)(昭和46年6月29日覆刻発行)によると、山村神社について「鎮座の年
   記未詳、界内観音堂あり其像の作者不詳。天明年間
1781年〜1787年)別堂宮守
   との間で紛議を起し、庄屋の仲裁に服せず領主加藤氏に出訴、別堂寺僧の敗訴
とな
   り本社の什寶古記録等携え逃亡して行跡を晦ます」とある。この
ことから、山村神社に
  
は記録が残ってないので社歴が不明であることが通説となっていた
     その後、甲賀郡志の記述にある古記録と思われるものが、伴中山の「三十八社」の
  
文書保管箱から発見された。(昭58年頃)。関係者によりその書を覆刻し巻物にして、
  
村神社に奉納されている(平成6年度末)。そこには菅公の御生涯について述べ、続
  
記録 が残されている。記録の要略を以下に記す。
        「山村天神について(天満宮梅風会報)」 
   北野天満宮(京都市) 権宮司浅井興一郎氏の解読文より抜粋

     菅公の配流された4人の御子息の中 
   16才の4男秀才淳茂公は父子惜別に
   富り、父君の御自
画と延喜帝より拝領
   の鈴を頂
かれて、江州甲賀郡美濃部郷
   に左遷せられた。
   漫々と湛えた琵琶
湖を芒然と佇立して
   眺めていられるのを、矢橋の舟手達が
   お供してこの謫居に御案内申し上げた。
   淳茂公は朝
夕この堂村の潮音寺の観
   音菩薩に、父子の再
会をお祈りしておら
   れた。

     處が、延喜3年2月父上が配所で薨去遊ばされたとの報せに御歎き一方ならず、潮音寺境
   内に祭壇を設けて、その尊前に圓い石を置き、「親子の忠直堅固、この
石の如くなるに」と絶叫
   されると、 その声は四方に震動した。
     淳茂公は、朝夕礼拝を怠られなかった。その鉄石の心が天に通じたのか、観音の御利益の
   ためか、 延喜23年(923年)父君御復位になり、淳茂公も同年5月御放免になられ、京都に
   帰られた。
     其の後、子息菅三郎直茂公が美濃部郷に北面の武士となり王太夫と称し、其の子息の是兼
   が近江守に任ぜられ、天暦3年(94 9年)社殿を造営、序いで正暦4年(993年)菅公に正一
   位太政大臣が贈られ、明應3年(1494年)5月には禰宜の多喜氏に、圓石を社壇に奉祀して
   吉凶を占えば参詣人は絶えないであろう、と神託あり、又観音菩薩は仁壽元年(851年)高野
   寺の西觀法師の作で、御祈願の者には御利益顕著である。これ故に祭祀祈願を怠ってはなら
   ない。
     巻物は、以上のような御由緒を記録するもので、末尾に「大原右近助永榮、弘治2年(1556
   年)丙辰春吉祥」とある。
     因に、神社の直ぐ近くの岡は山村城跡で、「享禄4年(1531 年)自2月27日至6月12日造
   之也』と「丸に菊水二葉紋」の鬼瓦が出土しているが、その上山城の城主は、山村信濃守良候
   で、 代々この天神を尊崇して来たが、木曽福島の代官として移封となり、上山新八郎が城主と
   なる。次の上山徳三郎は、上
山城の第一の家臣である田中近江守傳八郎宗秀を残して伊賀上
   野新田へ移封したので、田中近江守傳八郎宗秀
が城主となり、当村の田中氏の遠祖と伝わる。

   山村神社に奉納されている「天神社由緒」の巻物

     社は古来ト石を、 以って世に知られる。その神護寺を観音寺と言 い、堂を観音堂と言うこと
   は、元徳注進目録至徳4年等の文書に見ら れる。(山中氏所蔵文書)

   注進上山村郷元徳3年録事
   神田
   天神一反小、天王上
   寺田
   二階堂二丁五反       (中略) 
   右注進如件
   元徳4年3月
   田所代良慶(花印) 
   政所代秋信
                             (同文書) 
   上山村郷友行名田畑山林荒野井、観音寺井、

   地蔵堂院主職等の事 
                                (中略) 
   右彼領所帯所職名田屋敷山林荒野等者、守坪付井譲状旨一。四至境者任ニ道俊浄俊一可
   レ令ニ領知一若有ニ此外譲漏處者一可レ為ニ惣領知一候者也。仍坪付置文状如レ件 至徳
   4年丁卯3月21日
                          範俊(花押) 
                              (同文書) 
   目安山中大和守入道謹言
   近江国甲賀郡柏木郷内上山村郷御堂修理の事
                                (中略) 
   一彼当山城方管領仕號ニ修理料足一売執事既.、及三十ヶ年仁一不 致ニ修理於一間 依下
   無ニ勿體一存仁上其時之鹿苑院之主事権都寺 レ、井地下之御代管者慶副寺仁無ニ此修理
   事より申上處仁、我方申次 第者此山更々自ニ別當方一不レ可レ成ニ綺於一其謂者故岡本
   之道空入道 自筆自判仁書置事在レ之云々(下略)一別當之下知三段レ在レ之。若宮24供僧
   之内一供也。社役寺役修理米六斗下行仕残信黨之分二石ニ者不過レ之仍彼修理米無沙汰
   之由預ニ御尋仁事者、城方堂山賣執不如修理於料レニ一足莫大在之然間六斗之修理米難
   レ致ニ沙汰一定如山木之代一不レ可一有ニ正待一間近年以ニ六斗之方於一草坊宇執建一
   彼供僧 之居所仁定皐云々
   (中略) 
   一元者雖レ爲ニ御領御百姓今者也ニ免角申下人仁、召仕間彼等不 レ可レ成ニ憲法之證人
   歎。若然者此方以可爲同事者也(以下欠捐)(近 江興地志略)に曰く天神社堂村に在り祭神
   菅丞相の霊也鎮座の年 記不詳。神檀に一尺許の圓石あり。参詣の男女祈願の吉凶を占は
   むと欲して禰宜に此事を乞へば禰宜神前にて其の詞を高く唱ふ。吉なるときは輕く拳り凶なる
   時は盤石の如く重く其の奇特に著し。近国の男女参詣太多し境内に観音堂あり其の像作者不 
 
  詳。天明年間別當と宮守との間に紛議を起こし庄屋肝煎りの仲裁に服せず、領主加藤氏に
   訴せしが、終に別當寺僧の敗訴となり、本社 の什物、古記録等をたずさえ逃亡して行跡を晦
   ますという。
  (6) 主な什宝
     ト石楕円形で長一尺六寸径一尺二寸二分。
  (7) 石燈籠
     「元文三年六月七日」「享保二年四月」「同四歳三月吉日」「同七年九月」「同十七年十一月
   吉日」「宝暦七歳九月」「寛政四年七月」「同八年 九月」等の銘がある

 
8) 石高狗
     高一尺五寸五分廻り二尺五寸、作者年代不詳だが近代のものではな い。
  (9) 天神道標石
     「享保五年岩谷氏建」の刻字あり。備考(埃襞抄)幸神の祠に丸石 を置き軽重をもて事の軽
   重をトするといふ。今江州水口に近き山村の 天神宮の神祠に此石あり世に霊異を称せり云々
   (雲根志) 天神石、江州水口駅の辺山村という所に天満天神の社あり天神石という石なり

  
さ西瓜の如く圓き石也、諸人此石軽重をこころみ祈願の吉凶を問う事あり。願成就には石
   く、不成就には重。重き時は一人してあぐる事あたはず、軽き
ときはまたかろし、傅云天神筑紫
   よ り持来り給う石なりとかや。(東海道名勝記ノ柏木荘上山村に川枯神社あり俗に之を山村天
   神という。神前に玉石あり神主これによりて時の 運気を占うという。
   (注)丸石信仰は全国に見られる丸石信仰ではないかと思われる。
  (10) 例祭日
     昔は4月5日に行われ、後に5月1日に変わり、今は5月3日 に行われている。
  (11) 社格
     明治9年10月に村社に列す。昭和20年以降は社格なし。
  (12) 境内地
     920坪
     官有地第1種。今は宗教法人法により運営がなされている。
  (13) 氏子
     124戸
     (以上は甲賀郡志第三章第二十節山村神社より写書) 
  (14) 神社への道案内
     昔は道路の辻々に右天神、左天神とか神社の近くになると右すぐ天神、左すぐ天神、すぐ天
   神と書かれた石の道標が建てられていたが、今は県道等に山村神社と書
いて矢印の標識
   挙げられている。
  (15) 神社への参道
     「天神の参道」は、堂村の東の端から堂村の集落の中を通り境内の 東側の石段へ通じる道
   をいう。
    
観音堂の参道は」 、バス停天神前から堂村の集落の中を通り100mほど行くと石段の下に
   つき、石段を上ると境内に通じる道をいう。 
     「山村神社の参道」は、田引の集落の西端より田引の集落の中を2 00mほど行くと大鳥居の
   前につく道をいう。
     「新参道」は、県道山名坂線と県道山松尾線
の交差点を横断した所から150m程行くと、大
   鳥居の前に着く参道を言う。

天神の参道

観音堂の参道

山村神社の参道

新参道

  (16) 宮司
     宮司は柏木神社、の宮司が兼務している。大祭・中祭には、宮司が出使して祭司を行ってい
   る。また、山村神社の宗教法人法に基づく代 表役員もつとめている。
  (17) 宮守(神主) 
     昔は、各郷御伝人回り持ちで宮守が出ていたようであるが、その後各郷御伝人より各1名の
   候補者を選出し、おみくじにより1名の宮守 が選ばれている。 
     昭和61年の御伝人の改正により、各郷関係なく村中の御伝人の中より、1月20日に3名の
   候補者を山区の協議機関(区三役、大組総代、組頭、氏子総代)により選出し、本人の承諾を
   得て2月1日に神前にておみくじ祭が行われ、1名の宮守が決定する
こととなった。選ばれた宮
   守は2月5日より3月31日まで神前で宮守の行をする。
     4月1日より1ヶ年間、神社で住み込み(夫妻同伴)務めていたが、平成12年度の神社執務
   の改正により、住み込みから通いとなった。また、月2日の休日もできている。
     なお、平成16年度から、お指図式は12月1日、各月の休日
は3日に改正され、平成21年
   度から各月の休日は毎週月曜日に改正された。
  (18) 常任書記
     常任書記は、氏子の中より1月20日に区協議機関により2名の候補者を選出し、その日に
   宮守のおうかがいにより1名決定される。
     任期は1年。神社の雑務及び日々の会計業務を行う。
     なお、平成16年度から、候補者選出は11月20日に改正された。

                                   山村神社歴代宮守・常任書記

年 度

宮  守

常任書記

 

大正8
9 
10 
11
12 
13
14 
15 
昭和2
3 
3 
3 
4 



8 

10 
11
12 
13
14
15
15
15
16
16
昭和17
18 
19 
20
21 
22
23 
24 
25 
26
27 
28 
29
30 
31
32
33
34
35
36 
37 
38
39
40
41
42
43 
44
昭和45
46
47
48
49
50 
51
52
53
54
55
56
57 
58
59 
60
61
62 
63
平成1
2 
3 
4 
5 
6 
7 
8 
9 
10 
平成11
12 
13 
14
15 
16 
17
18
19 
20
21
22 

池本惣三郎
山下久吉
中島廣吉
山中亀吉
中尾庄治郎門
前川善八
山下常治郎
青山熊次郎
杉本富五郎
田中亀治郎
殿城捨藏
青山熊次郎
中川留吉
中村房吉
西村與吉
中尾象一
杉本岩三郎
堂山籐吉
中尾象一
田中栄治郎
中尾卯市
堂山籐吉
青山市太郎
坂川清右衛門
坂川清右衛門
青山市太郎
堂城川石右衛門
杉本富五郎
中尾卯市
中尾嘉平
大平捨治郎
中川宗治郎
堂城川石右衛門
廣瀬徳治郎
廣瀬虎三
堂山岩右衛門
山下平吉
大平甚吉
中尾嘉平
中島善八
杉本弥三治
田中俊次
坂川新七
前川万兵衛
門坂一次
嶋田芳治郎
池本忠一
池本藤兵衛
中尾弥右衛門
前川清助
中尾晴松
深谷忠治
廣瀬治平
墨田治右衛門
山中忠吉
小林八十七
宿谷與一
大平元治郎
山中忠吉
深谷忠治
中尾定次
中島善臣
島田栄
大平義一
墨田繁一
中尾太郎
大平文吉
西本春吉
堂城川石次
西村元吉
前川一明
池本武
杉本繁次郎
坂川芳信
田中善作
墨田清治郎
大平治朗
堂山哲央
殿城重治
池本忠夫
西村良藏
墨田晁宏
山村良次
小林長夫
山澤啓蔵
門坂章
山村明和
山中善司
堂中晴吉
島田和雄
門坂稔
廣瀬輝雄
田中勲
中尾長男
松下育夫
中島伸一




中尾象一
門坂重太郎

杉本富五郎

門坂重太郎
中尾卯市



山中徳松
松永伊三吉

田中竹治郎
島田治与門
中尾治助

前川重五郎

中尾晴松
池本宗平
池本宗平


前川重五郎
門坂忠七

門坂一次
平田政五郎
中川忠治郎

大平三之助

前川清助

池本忠一

大平富市
西村良一

池本藤兵衛

杉本治

堤正俊
大平元治郎

中尾定次

中川長治郎
中川長治郎
島田正雄
大平文吉
山下永一
中尾太郎
大平義一
西本春吉
田中五平
池本宗吉
深谷治与門

山下宗夫
堂山哲央
坂川芳信
大平治朗
前川覚三
殿城重治
池本忠夫
小林與一
墨田清治郎
中尾義和
墨田晁宏
田中手作
杉本久雄
小林新一
嶋田與吉
山中健二
廣瀬善雄
山村明和
堂中晴吉
墨田三朗
田中善夫
山下昌夫
大平義治
杉本泰造
山下茂信
山中茂
堂山勧
中村房雄
中尾隆
深尾寿栄男
殿城久夫
嶋田増弘

3年8月1日
3年8月5日
再選










































































  (19) 氏子総代
     氏子の代表である氏子総代は、氏子の中より区協議機関により毎年 2名選出する。任期は
   2年、毎年2名ずつ交代する。 
     2年目の氏子総代の中から、神命により出納1名を選出。出納は、氏子総代の代表者で神
   社の護持運営等を宮守、常任、氏子総代等と協 議し会計業務も行う。

                                山村神社暦代氏子総代

年 度

氏子総代出納

出 納 以 外 の 氏 子 総 代 

昭56
57
58 
59 
60
61
62
63
平1 
2 



6 
7 
8 
9 
10 
11
12
13 
14 
15
16 
17
18
19 
20
21
22

前川萬三
堂城川正二
大平嘉一
小林與一
門坂章
杉本久雄
前川重男
島田豊
杉本泰造
墨田三朗
山下昌男
山中幸市
山澤啓蔵
山中博三
大平義治
山中茂
田中勲
西村勇
松下育夫
山中善司
中尾隆
中尾和剛
平田勝治
嶋田増弘
殿城久夫
山村重和
青山市郎
中島慧
松下久雄

宿谷卯一郎
西村良蔵
墨田清治郎
堂中晴吉
嶋田與吉
中尾勝弥
山村良次
小林新一
小林長夫
山下春男
堂山康一郎
前川富蔵
山中治
中尾博行
島田和雄
堂山勤
山下茂信
廣瀬輝雄
中村房雄
中尾長男
門坂忠篤
深尾寿恵男
大平敏夫
中島伸一
西本庄助
堂城川石一
山下芳夫
松永昇
杉本繁治

堂城川正二
大平嘉一
小林與一
門坂章
杉本久雄
前川重男
島田豊
杉本泰造
墨田三朗
山下昌男
山中幸市
山澤啓
山中博三
大平義治
山中茂
田中勲
廣瀬輝雄
中村房雄
中尾長男
中尾隆
中尾和剛
大平敏夫
嶋田増弘
殿城久夫
堂城川石一
青山市郎
中島慧
松下久雄
堂中友一

西村良蔵
墨田清治郎
堂中晴吉
嶋田與吉
中尾勝彌
山村良次
小林新一
小林長夫
山下春男
堂山康一郎
前川富蔵
蔵山中治
中尾博行
島田和雄
堂山勤
山下茂信
西村勇
松下育夫
山中善司
門坂忠篤
深尾寿恵男
平田勝治
中島伸一
西本庄助
山村重和
山下芳夫
松永昇
杉本繁治
島田善夫

  (20) 御伝人
    
御伝人は、以前は各郷で定められた定員制であった。上村で10名、堂村で7名、田引で9
   名(4組、西本家を含む)、西村で7名(小林3 家を含む)の計33名であった。
     昭和61年の改正により、山区一本化がされ数年60才の1月25日より数年75才の1月25
   日までの氏子の男子とした。
     なお、平成17年度から、加入年齢は、数年60才(満59歳の12 月)の12月25日に改正さ
   れた。
  (21) 御伝人の参拝する行事
     毎月25日月並祭
     1月3日山之神祭
     1月18日おこない祭
     3月25日太々神楽講
     5月3日春の大祭、5月25日早苗振祭
     6月25日大祓祭
     7月25日祇園祭
     9月25日出来日待祭、
     12月25日大祓祭
     なお、御伝人は参拝しないが、その他2月7日総こもり、2月11 日祈年祭(建国祭)、11月
   23日新嘗祭(新穀感謝祭)がある。また 戦前には、干天続きの年は雨乞祭が行われていた。

  (22) 敬神団体
   
  敬神団体として天信講があり、明治34年11月13日太々神楽講社設置の許可があり、毎
   年3月25日の太々神楽講の祭典を行っている。設置当初には、1,000人以上の講社員を
   有していたと言われ る。また、毎月16日に家内安全のご祈祷を受ける祭典を行っている。 
     他に敬神団体として、平成18年に高齢化等により解散
したが、蒲生郡日野町別所の有志の
   方々の御湯講があった。

  23) 信者
     山村神社の信者は、全国各地におられ、中には日参されている信者、また月に2回、3回と
   参られる信者も多くある。昔の信者の子孫の方々が代をついで参っておられる。ご祈祷、おみ
   くじ等をそれぞれに 受けられて、今なお敬神の心は子孫へと受け継がれている。
  (24) 山村神社の主な祭典
    @ 初天神祭1月25日
     毎月25日には、午前と午後の2回月並祭が行われている。1月25日はその年の初めての
   月並祭で、近隣また遠方より多くの 方の参拝者でにぎわう。
     当日は、午前10時より初天神祭の式典が行われる。午後は、拝殿を神楽殿として、御神楽
   奉納者の御神楽が午後4 時ごろまで奉納され巫女さんにより舞が行われる。また、社務所の 
   祈祷所においては、宮司によりご祈祷も行われ、多くの参拝者 がある。

 
  A 太々神楽講3月25日
     太々神楽講の祭典は、3月25日の午後行われている。当日の午前
10時からは月並祭の
   祭典が行われる。

    太々神楽講の祭典は、明治34年に太々講
   社が結成され、その当時は千人以上の講社
   員があったよ
うである。その後、何町歩という
   田・畑・山林を保有するようになったので、農
   地の年貢にて、その式典の経費
をまかなって
   いたし。 かし終戦後の農地解放により全部
   農地は取り上げらた。祭典
は、区及び天信
   講社員により同じように行われている。
   前日の3月24日の午前に天
信講社員、当
  
番、氏子総代で社務所より拝殿、本殿への 

   仮橋を30メートル程度かけて準備をする。当日は、早朝より献品の受付、昼前に拝殿の式典
   の準備、午後に 式典献品の手伝いをする。式典には、宮司、副司、宮守、巫女が 祭主する。 
   式典参列者は、氏子総代、区3役、大組総代、御伝人代表、他所信者代表、天信社々長、伴
   谷地区氏子総代会長、伶人等である。
     その日の献品は、仮橋を渡り本殿に
お供えされる。その後、巫女4名により12ヶ月間の農業
   の色々の行事
にのっとって、太々神楽の舞が奉納される。2時間程度の長い祭典であり、本殿
   にお供えされた献品は本殿より橋を渡り社務所に納められ式典は終わる。
     なお、平成19年から仮橋について老朽化が激しいため、拝殿から本殿のみとなった。

             平成19年新規作成の仮橋                               旧の仮橋時の餅まき大会

  B 春の大祭5月3日
   
  前日の夕方、神輿を倉から拝殿に出し、祭の準備を氏子総代、区役員でする。夕方、氏子

   の中より6名の方が神輿の番を午前6時まで、
   それからは御伝人の中より6名が交代され神輿
   お渡が始まるまで番をする。 
     また、当日の朝7時頃から氏子の中より6名で
   獅子頭と太鼓を持って村中をおせん楽に回られ
   午前中に終わる。
     午後の式典は、本殿前で氏子総代、区役員、
   大組総代、組長、御伝人代表、神輿丁代表参
   列にて とりおこなわれる。
     神輿は、昭和51年に区で新調した大人神輿と
   平成6年に寄贈 された子供神輿の2社があり、
   本殿前式典終了後拝殿において神 輿の御たま
   移しの式典が行われ、その後、神輿は御旅所へ
   と出発 する。まず、役割の発表があり、それぞ
   れ役付の人々はその職務 につき行列される。
   神輿は、今は車に乗せて地域内を一巡して御 
   旅所へと入り御旅所の式典がとりおこなわれる
   のである。御旅所 の式典が終わると春の大祭
   は終了する。

  C 子供の宮入り(おこない)
   
1月18日以降翌年の1月10日頃までに生まれた子供のうち、長男のみ「おこない」をつとめ
   る。各郷によって色々であったので、ある郷の昔の「おこない」に ついてのべる。
     「おこない(養子も同様)」の日は、1月10日山村神社本殿、1月18日山村観音堂で行われ
   る。1月10日に「おこない」をつとめる家は12月10日に「お こない」を受ける。
     1月18日に「おこない」をつとめる家は1月10日に「おこ ない」を受ける。
     「おこない受け」の日は、御伝人9人の人が受ける家に一升余りの餅を持参する。そして受け
   る家は、魚3品の会席膳とうどん、酒にてなおらいを御伝人にする。また、持
参した餅の半分を 
   御伝人分に配分して式は終わ
る。4分の1は受ける家、4分の1は子供の母親の実家に配分す
   る。
     次に、「おこない」つとめについては、つとめるのに1俵近くの餅が必要なので、前日に親戚の
   方をお願いして早朝より餅をつく。立会兼指導として御伝人の中より2名来る。菱餅6升がけ2

   おし半、日、月各6升がけ、当餅尾長どり、その他の餅、 
   おったて(田楽・3こん用)。三種さかなとして、たたきご 
   ぼう、人参(1こん用)、
なます(2こん用)、酒をもって、山
   村神社へ準備に施主と親戚代表2名(給仕人)が行く。
   御伝人の方がこられて、1こん、2こん、3こんと儀式がさ
   れ、その間に餅が分けられて、最後は豆腐の田楽で儀    
   式が終わる。御伝人の方が帰られた後、後始末をして
   家に帰り、親戚の方を呼びなおらいをしたのである。
     「おこない」を受ける順番は、先に生まれた子供は1月

   18日、次に生まれた子供は1月10日、その次の子は翌年であった。 
   昭和61年の改正により、山区一本化になり、「おこない」は、1月18日1回になった。また、お
   こない受けは廃止された。 つとめる施主は、山村神社へ米2俵分のお金と献酒1本、お鏡餅5 
   升掛1重を献上して、施主と親戚代表が準備し、御伝人全員が参拝することとなった。
  D 山之口入り
     各郷によって色々であったので、ある郷の「山之口入り」につ いてのべる。
     「山之口入り」は、定員があり、欠員が出来ると生年月日順に入り、御伝人9人山之口3人の
   計12人であった。
     料理は、会席膳3品、取回し2品、折り詰めと酒である。二日前
によびつかえに御伝人各家に
   行く。二日後の正午に御伝人がこられ、全員揃うと若役の紹介の後、御神酒で儀式が始まり、
   後な おらいとなった。
     昭和61年の改正により、数年59才の11月9日より入会する。入会する人は、山村神社に
   米1俵分の金と御酒1本を献納する。山村神社の本殿において入会奉告の儀式が宮守により
   おこなわれる。終了後宗司堂で神酒せん米の式があり、入会者の紹介を若役が行い、後なお
   はらいがある。参拝者は、御伝人及び山の口会員とした。
  E 御伝入り及び退会
     御伝人は、昔は定員制で上村で10人、堂村で7人、田引(4組)9人、西村(3組)7人の計33
   人であった。1人欠員が出来ると1人入会し終身であった。
     昭和の初期に改正され、数年の75才の1月20日までとなった。
     昭和61年改正により、山区一本化になり、数年60才より数年75才の1月25日までとなっ
   た。
     入会にあたっては、山村神社に米1俵分の金と御酒1本を献納する。1月25日の月並祭の
   式典と同時に入会退会の奉告の式典が行われ、式後、若
役により入会の紹介、年長により退
   会者の奉告がされる。
     平成17年の改正により、山之口入りと御伝人入りは、数年60才(満59歳の12月)の12月
   25日の同日とされ、また退会 は、数年74歳の12月25日とされた。
  F 1月3日山之口山之神祭
     山区での一番早い山之神祭で、山村神社が主催し子供が主に祭 の準備をする。
     昔は、堂村と田引の小学校入学前から六年生までの男子が参加していた。少子化になって
   から、山区の男子全員が参加するようになり、子供会の事業となった。また、御伝人の若役も
   準備の手 伝いをしている。
     子供達は朝8時に山村神社に集合し、大きい子はマタ切り、竹切りをする。小さい子は各家
   で準備しているツトを集めに回る。 
     ツトは、藁の中に米少々、もち、みかん、干し柿等を入れたものである。マタは、かしの木の
   マタになったものをオスマタ、メスマタ各1個ずつ作る。オスマタには干し柿をつけ、メスマタに 
   はみかんをつける。竹は、割り箸、しゃもじ2個、釜を担う棒、しめなわ等をつけて担うもの、ご
   飯をおそなえす
る台用のあみ等を作る。藁は、大注連縄、ご飯をもらうツト、鍋台、鍋つかみ等 
   を作る。集めてきたツトの中の米にてご飯をたく。その中へもち を小さく切って入れる。
     準備が終わると、子供、御伝人が行列をして山之神へ行く。山之神は、山村神社の東の階
   段を降り、150米ほど行った所にある。山之神につくと注連縄を東神木から西神木に張り、宮
   守が祝詞をあげ、御神酒、御飯をお供えして諸々のお願いをする。子供等によりオスマタ、メ
   スマタで子孫繁栄の儀式が行われ、参拝者全員に御神酒と御飯のふ
るまいがある。最後に宮
   守により、「早生、中生、晩生、二十四候の作り物。皆良かろ」と五穀豊穣の祈願がされ、祭の
   行事は終わる。その後山村神社にてなおらいの昼食をいただく。
 
     山村神社運営等に関する申し合せ事項改正経過は掲載を控えさせていただきます

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