山区の生活の移り変わり

 (昭和初期からの生活の移り変わり)
  (1) 衣類
     昭和初期は、畑で綿を作って機織をし、その反物で着物などの衣類を各家庭で作って着用
   していたが、戦時中は手間がなく、機織はされ なくなった。
     昭和30年代になると色々な衣類が、店頭に出回り自由に買えるようになってきたため、
   着のつづくり等をしなくなっていった。また 洋服の時代で、和服は儀式の時だけしか着用しな
   くなった。
  (2) 食事
     昭和初期は、菓子類は、幾分か出回っていたが貧しい食事をしていた。魚類は、年に数回で、
   ほとんど家で採れた野菜等を食べていた。 
   魚が口に入るのは、盆、正月の親戚呼びの時及び春の田植えと秋の農作物の収穫の終わり
   に神様にお供えし、その後、家族で分け合って食 べた。
     肉は、大方の家で鶏を飼っていて、卵を産まなくなった廃鶏をたま に食べた程度であった。
     それも昭和16年以降の大東亜戦争が激しくなると、魚はもとより菓子類、主食の米も自分の
   家で食べる飯米も自由にならず、ほとんど 国に供出し、麦、くず米、甘藷、南瓜等で腹を満たし
   ていた。甘藷、 南瓜は、質より大きくなる収穫の多い品種を作っていた。少しでも場所があれ
   ば耕して甘藷を作っていた。その頃は、小学校の運動場もほとんど甘藷畑となっていた。小学
   校の高学年から高等科まで2年半ほどは、天気のよい日は、田畑の仕事で勉強は第2、第1
   は食糧増産で ある。昭和20年8月15日の敗戦後まだ2〜3年ぐらいは食糧不足が続いた。
     戦後は、徐々に色々な食料も出回り、魚、牛肉も毎日のように口に出来るようになった。
  (3) 住居
     昭和30年頃までの住居は、ほとんど屋根は萱か藁で葺いていた。毎年屋根の葺き替えをし
   なければならなかった。その後、トタン板を 張るようになり、今では瓦葺に変わった。
     また、各戸に牛を飼っており、母屋の中で家族同様に扱われていた。 農作業等の荷役のあ
   と、肉牛として肥育し近江牛として共進会等で入賞したこともあった。字田引の倉庫に「かんか
   ん(牛の体重測定器)」 があった。
     調理する場所は、屋根の下にあったら良い方で屋外にある家もあっ た。
     風呂は丸い底が70p程で深さが90pほどの桶風呂であった。そ の風呂に井戸から「つる
   べ」で汲み上げ、バケツに10杯ほど入れ木の葉か柴で火をたき、湯を沸かしていた。また、か 
   まどで御飯、お汁、お茶用湯を沸かしていた。それには木の葉、柴、割木等を燃料として いた
   ので、冬中の仕事に木の葉100束、柴150束、割木200束を作っていた。その後、井戸にポ
   ンプを設置して、各所に水道管の配管がされ、昭和30年代初期に町により上水道の施設
   出来た。
  (4) 電気製品
     電気は、大正の中期には各戸に1灯ずつの電灯があった程度であるが、その後1棟に1灯
   ずつに増え、昭和30年代に各戸に電気メータ が設置され、急速に電化製品が増えた。30年
   代後半になると洗濯機、 扇風機、冷蔵庫、テレビ等がどの家庭にもあるようになった。現在で 
   はありとあらゆる電化製品があるが、昔は冷房器具もなく、うちわで 暮らしていた。又、暖房は
   大鉢に焚き火の残り火を入れていた。その後、練炭とか豆炭を使っていた。
  (5) 農業
   @ 耕耘
     当地域の水田は、田の中へ入ると膝の上まで入る大半が湿田で乾 田は、少なかった。全部
   鍬で耕していたのであるが、昭和初期にな ると牛を使って唐鋤で耕すようになり、大部分の家
   に1頭の牛が飼 育されていた。昭和30年代になると耕運機、昭和50年代になるとトラクター
   が導入され、農機具も大型化した。
     また、田の面積も、平均で5アール程度で、小さい田は1アール、大きい田で10アール程度
   であった。今は、圃場整備により、平均 30アール程度となった。
   A 田植
     育苗は、現在、全部屋内の育苗箱で育てているが、昭和30年代後半までは、水田に苗代を
   作って籾種をまいて早苗を育てていた。 
     また、田植えは手作業であったので、朝4時ごろから作業に取りかかり、2メートル間隔に縄
   を引いて、それにそって手で植えていたのである。上手に植える人でも1日に10アール程度し
   か植えら れなかった。
     昭和30年代後半になって、歩行用の2条田植機が導入され、現在では、5条・6条用の乗用
   型田植機で施肥機も取り付けられ同時 に施肥が出来るようになった。
   B 田の草取り
     昭和20年代までは、全部手作業で1番草、2番草、3番草、上草と、夏の土用の炎天下で水
   田に這って、7月下旬まで除草していたが、その後手押しの除草機が導入され、手作業の幾分
   かの手助けが出来たのである。また、30年代前半になると除草剤が開発されたので手作業の
   必要がなくなった。
   C 田の畦草刈
     昭和30年代前半までは、全部手作業しかなく、草刈鎌で年に1回から2回刈るのが精一杯で
   あり、刈った草は全部家に持ち帰り、牛の飼料とか堆肥として水田に還元していた。その後、草
   刈機が導入され年に3回から4回刈る事が出来るようになった。
   D 田の用水
     当地区には、思い川の水を利用するように井せきが設置されていた。また、川の上流には大
   きな溜池が作られ、その水を利用していた。水が自動的に入らない水田の一部では、はね釣
   瓶といって竹の先に桶をつけてかい上げていたが、発動機の発達により揚水ポンプが導入さ
   れ便利になった。
     現在では、圃場整備により、用排水が完全に分離され、用水についても、ボーリング等によ
   り賄っている。
   E 農道
     昭和初期は、農道はなく、すべて人の力によって物を運んでいた
     その後リヤカー、二輪の荷車が出来たので農道が必要となってきたため、昭和の10年代後
   半には谷田の原野を利用して2メートル程の農道が作られた。平地では農道の用地の話がま
   とまらず、他人 の土地を通って農機具等を運んでいた。
     現在では、圃場整備により3メートル程度の農道が完備し、運搬は小型トラック等で行ってい
   る。
   F 秋の農機具及び収穫
     戦前は、稲刈鎌で刈り取り、「せんば」で脱穀し、筵で天日干しのあと、土臼で籾摺りをしてい
   たようである。
     秋の日は短いので、朝は5時頃から水田へ行って脱穀をし、その籾を持ち帰り、筵干しをして
   いた。朝露で午前中は刈取りがあまり出来ないため、夕方から夜9時ごろまで翌日の朝脱穀す
   る稲を刈り とっていた。
     また、脱穀した籾を白米にするため、思い川の水を利用した水車小屋が思い川の「中切」の
   堰(大平地先)あたりにあった。 
     昭和30年代に、足踏みによる脱穀機、電動による籾摺機が導入された。その後、刈り取り
   用のバインダー、全自動脱穀機、コンバインが導入された。刈取りと脱穀が同時に出来、また
   籾の乾燥も天日でなく電気と温風で乾かす乾燥機になった。
   (6) 老人の生活
     戦前、戦中、戦後暫くは、医療の未発達と戦死者による平均寿命のため人生50年と言われ
   た短命の時代で、60歳も過ぎれば完全な老人で「年寄り」と言われた。今の長寿社会は、80
   歳〜100歳の方も多くおられ、元気で「老人とか年寄り」と言わず「高齢者」更に「後期高齢者」
   と呼ぶようになった。
     戦後経済の発達により農作業も全ての手作業から機械化されることになった。以前の老人は
   夏には成人男性も含め早朝涼しい間に鎌で田の畦や土手、畑や家の周りの土手の草刈に能
   率も上がらず追われるのが日課である。
     どの家にも人力を助ける農耕や荷車などを引くため牛を飼育しており、牛は高価で農家には
   重宝な存在であり、毎日新鮮な青草を飼料として与える必要があり、そのことも老人のみでなく
   家族の大事な日課であった。
     冬には、縄ない、藁草履、取入れ時の「もみ」を天日で干す「筵」や「こも」、収穫した米を出荷
   のため入れる「俵」などを藁で編む藁仕事に明け暮れした。
     成人女性は、老人も含め「さ・し・す・せ・そ」と言われ、裁縫、刺繍、炊事、洗濯、掃除のため
   電化製品もなく全て手作業で行っていた。当時は「生めよ増やせ」が国の政策の為、子沢山で
   この世話も女性の役目と位置付けられ、昼間は女性も野良仕事に出て老人も子守や野良仕事
   を手伝い、日々の生活に追われ時間的余裕などなかった。
     現在は、家の内外とも機械化され時間的な余裕もでき、ゲートボール、グランドゴルフ、趣味
   の会、旅行などで共にお互いの交流を通して楽しく余生を送っている。
   (7) 子供の生活
     子供の遊びは、昭和30年代前半まで、竹馬、こま回し、めんこ、カルタ取り、竹ひごと紙で作
   る飛行機などであった。また小学校へ入 学するまでは保育園などはなく家にいた。
     昭和30年代中頃になると保育園が開園され小学校入学の1〜2年前から入園するようにな
   り、現在では2才、3才児から入園している。さらに幼稚園も開園された。また小学校へ入学し
   て3年生になると、 塾へ通う児童もあり、運動面では、学区内に20年以上前からスポーツ少
   年団が結成された。
     また、今も続いている行事として、毎年1月3日の「山の神祭」がある。 子供達の内大将が「
   ナーヤレ、ナヤレ」、後に続く子供達が「イッカイホニ、ナヤレ」というかけ声で、大しめ縄をかか
   え、山村神社から山の神まで練り歩く。山の神の前で祭事をしたあと子供たちは、2列に並び
   それぞれ手に「ツト」を持ち、列の間を走り抜ける子供を叩く。ガキ大将もこの日ばかりは叩か
   れた痛さの余り涙を流す。寒さも忘れ子供たちは元気一杯神事に取り組んでいる。
     さらに、毎年8月13日の「おしょうらいさん(先祖の霊を迎える松明)」がある。「しょうらいのむ 
   かえべえ、こおれについてごしゃれ」−精霊の迎え火、この火について来てください−子供たち
   の元気な声が山の上で響く。おしょうらい山の山頂で、大きな火を燃やし、その火から子供たち
   がそれぞれに持つ松明に点火する。その松明を各戸の提灯の火に、という昔ながらのお盆の
   行事がある。
     この二つの行事は、山区で生まれ育った子にとって、大人になっても子供の頃の思い出とし
   ていつまでも脳裏に刻まれている。
   (8) 職業
     昭和30年代頃までは殆どが農業で山区の水田の面積は120ヘクタール、1戸当たり1ヘク
   タールあり旧伴谷村の近隣区の中では恵ま れた集落であったが、現在は専業農家が数軒で
   農業は兼業(サラリーマン)である。
     また、大正時代から昭和の初めにかけて、地下から掘り出した精米精麦等に使われる白土
   を京都方面へ売りに行って収入を得ていた者があったようである。
   (9) 隣近所のつながり
     昭和20年前半までは、お互いの絆が濃く何かにつけ協力と助け合いが強かった。また皆が
   質素な生活のため共同体社会としてそうしなくては生活が出来なかった。
     例として、風呂は焚き物を節約し井戸からの水汲みや風呂炊きの手間を省く意味からも毎日
   沸かさなく、隣同士何軒かが互いに交代で沸し家族全員が風呂を貰いに訪問した。夜はテレビ
   もなく多くの話題で賑わい近所同士の家族ぐるみの交流も出来た。
     隣組10戸位が毎月一回「組常会」として組内の各戸が宿の廻り持ちで、夕食後集まり夜11
   時頃まで区の伝達事項や組の申し合わせ事項、互いの情報交換などで絆も強まった。
     雨天で農作業が出来ない日や、比較的農作業の暇な季節など、電話の無い頃で近所への
   連絡など隣近所を訪れると「お茶を飲みな」珍しい「菓子」などあれば振舞いゆっくり過すことも
   度々あった。今は時間的な余裕はあるものの異なった意味での心の余裕がなく、世相の変化
   でどの家も玄関に施錠をして留守勝ちであり、「隣の人ぞ何する人ぞ」と互いに疎遠になってい
   る。
     以上のような最近の課題への対応として町村合併以来、平成15年頃から「ご近所福祉」の組
   織的立ち上げを区単位ぐらいで進める取組みが甲賀市や水口町で社会福祉協議会や区長会、
   民生委員協議会が中心になり叫ばれている。超高齢化社会となり独居高齢者や高齢者世帯も
   増え、個人情報保護が叫ばれる近年、近所の絆が弱くなってきた世情で、最近の地震等の災
   害で国のあちこちの被害の教訓から、過去に災害のなかった滋賀も決して地震等がない保証
   がないことも科学的に判明した。従って過去のようにもっと近所同士互いに絆を強め助けあう
   必要が痛感される。幸い戦後区の公民館や集会所など区民が集える区の施設も建てられ、こ
   れらを有効に活用して区内の好きよりや同好会、市の福祉助成金を受けて定期的な交流の会
   なども持たれ、互いの情報交換や交流を深める取組みにも努める雰囲気が出来つつある。
  (10) 小野の宅地跡(所在地甲賀市水口町山北小野) 
     今は水田となって圃場整備がされているが、県道泉・日野線と桜ケ丘団地との間に昔は5戸
   程の住居があったと伝えられており、昭和15年頃までは1軒の住宅があった。
     桜ケ丘団地が開発されるまでは、その団地の区域内の山林の一角に十基程の石仏が立ち
   並んでいたが、これらの石仏は、上村の善勝寺へ移転されたと聞いている。

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