道路の果たす役割は、地域の発展や生活
に大きく関わる。山区内の主要道路「泉・日
野線 (県道178号線)」は、甲賀市水町泉
の国道1号線から蒲生郡日野町に通じ、区の
南西部から北西部を通り、2車線で急カーブ
がなく、全区間見通し良く、山区内全線に歩
道と農作業車用側道も完備されている。
住宅団地の開発と日野方面からの通過道と
しての通行車両も多く、北端の桜ヶ丘入口に
は信号機が平成13年8月に設置された。
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泉・日野線(県道178号線)
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山区の東西に伸びる「山・松尾線(県道17
9号線)」は、以前(市道)は「城之橋」を直ぐ
東に集落の中を通り、1車線でカーブも多く、
近年の通行車両の増加により危険度も高く
なったため、平成4年11月に「泉・日野線」
より集落を離れ松尾地先まで歩道付で見通
しの良い2車線で県道179号線として開通
した。 伴谷東小学校の開校と共に交通量も増加し
平成8年2月に「山・名坂線」との交差地点に
信号機が設置された。
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山・松尾線(県道179号線)
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「山・名坂線(県道537号線)」は、笹ヶ丘工業団地の造成時滋賀県都市開発公社の協力によ
り、山区内から甲賀市の中心地・水口町商店街への最短道路として、「天神橋」より歩道付で
交差点の信号機を越え、以南2車線の見通し良い道路に拡幅された。この道路は、もともと農
道で、「天神橋」もどうにか人が一人通れる石
橋であったが、昭和45年頃1車線の道路に
拡張された。通勤・通学等に便利な道路とし
て通行量も多い。
水口工業団地の開発以降工業団地内の東
西道路開発に伴い、更に拡張付替え工事が
計画されたが、諸般の事情により中断したま
ま3年経過している。
交通の手段として甲賀市が「はーとバス」を運
行し、買物や通院など運転出来ない高齢者や
学生などに、特に便利な足となっている。
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山・名坂線(県道537号線) |
「市道山・大平3号線(通称山村神社新参道)
」は、ひのきヶ丘工業団地の造成時、住宅都
市整備公団の協力により、大型バスが対向
できる2車線道路として、法念寺東に続く急
斜面の土砂を圃場整備事業に活かし、平成
6年に新設された。当初県として急斜面で環
境問題として難色を示していたが、関係者の
努力で実現した。
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市道山・大平3号線(通称山村神社新参道) |
[現在の道路地図]
(2) 昭和30年頃の山区の道路事情
昭和初期までは「姫の口」から山村神社鳥居前経由の東進の細い道路しかなかったが、昭
和9年住宅街を避け南側に「城之橋」北詰を曲がる道路が新設された。当時の区民は新道と
呼んでいた。この道路費用捻出のため、赤禿の区有林を旧伴谷村に売却した。
また当時山区内には、自家用車、運転免許証所有者は皆無に近く、バスの通行もなかった。
山区内の殆どが米作農家で生産米を共同出荷で都市部へ出すため、日本通運の自動車が各
郷の倉庫から三雲駅まで運び、雲駅から草津線の貨物列車に積み運んだと聞いている。
それ以降は山区での道路は約30年間動きがなかった。この道路はどうにか道幅はあるが、
他の道路は道幅も狭く、曲がりくねり見し悪く昇り下りの坂道多く、砂利道なら良い方で農作業
や森林の世話に荷車が通行できるのがやっとであった。米作農業が生計の中心であったため、
農地を潰してまで道路の拡張や新設、見通しをよくする改修には土地所有者の同意も得られな
かった。
[昭和30年頃の道路地図]
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(3) 現在の道路ができるまでの経過
昭和30年当時は、全国どこともよく似た状況で、山区より早く良くなった地区や、また遅れて
いる地域もあった。
特に山区では、昔から粘土質の土地からの味のよい生産米重視が道路より農地優先の考え
が 強かったのではないかと思われる。
当時頃から農業政策や農家の状況も変化が出始め、道路を良くし開放的に他地域との交流
により地域の発展になるとの考えや、農業以外の収入を求める風潮も出て農地への執着心
にも陰りが見えてきた。
日野町では山区経由で1号線や水口方面、三雲方面への南下の要望が強く、県へも山区内
の道路改修を強力に企てたと言う。山区の小野方面土地所有者農家は、区長を先頭に「筵旗」
を立て県の対応や測量を阻止したと聞いている。県や日野町の強力な対応に抗し切れず区が
条件付で了承した。
その条件とは
1.田地の買付価格は他にない特例扱いとする
2.道路建設人夫は区の住民を使い、人夫賃を優遇する
−当時は他に働き収入を得る時代でなかった−
3.道路建設に対する地元負担金は無にする
4.急カーブや見通しの悪い箇所は作らない
以上他所にない条件を水口町議会として県へ出すように、山区から伴谷以外の議員にも訪
問して根回しをしたと聞く。貴生川学区より貴生川小学校前のバイバス道路の建設を考えて
いるが、同条件で協力するなら交換条件で賛成するとのことで水口町議会の決定となり今
の泉・日野、「線」の基礎が昭和35年頃にでき、「近江鉄道バス」が日野駅から山村天神口ま
で、1日2往復の運転で開通した。
なお、山区でのバス運行は、昭和28年頃下田発八田、山経由水口行き、三雲発伴中山、山
経由水口行き、国鉄バスに続き滋賀交通バスの開通もあり、当時山村神社の初天神には滋賀
交通の臨時バス増発もあり大変な賑わいであった。
特に「泉・日野線」については、その後平成3年頃から圃場整備事業と新興団地の人口増に伴
う交通量増加及び児童通学路整備等に関連し拡張改修、また「びわ湖空港」建設候補地として
日野町が脚光を浴び県の対応が積極的になり、更に整備された。「城之橋」北詰では平成4〜5
年に住居の移転まで行い、平成6年に現在の直線道路の拡張改修が完了した。