(1)圃場整備事業
@はじめに
当区は山間地域にあることから、田んぼは古くからの地形のままで、高低差がひどいため1
枚1枚の田んぼは狭く土手があり、流れる川は蛇行し大雨が降れば田は冠水し一面が池の
ようになり、同じ1俵の米を作るにも、大変さが改めて思い知らされた状況でした。また、徐々
に工場等へ働きに出られる方も現れ、今後、農業が機械化されること等を考えた場合、いず
れ田んぼを整備しなければならない時期が来るとの強い思いを大半の方々が持っていました。
このような状況の中で、昭和44年(1969)度に入った頃に、伴谷の他地域に先駆けて高度
改善事業(圃場整備事業)をすればどうかとの話が出て来ました。
A役員の選出と事業計画の決定
そこで、役員等を選出し検討することとなり、区民による選挙の結果、検討委員の方々が選
出され、昭和46年(1971)8月10日には事業計画の決定を行い、本事業に取り掛かること
になりました。
B完成後の状況等
本工事は伴谷地区でも他地区に先駆けて行われたため、工事は田・土手・川等はブルドー
ザーで一気に大きな田にされ、稲作を再開され、肥料等も十分に施されましたが、10年位経
過後でも川であった所が作柄で確認できる様な状態でした。しかし、施工が昭和46年という早
い時代に実施したため、安価な価格で圃場整備事業が出来ています。
C換地
完成後、仮換地による米作を約3年位した後に本換地となりましたが、各家では、元の田の
近くや場所の良い所を誰もが望んだため、換地については委員の方は大変な苦労をされ、本
登記は完成後数年経過後でした。換地に係る委員をされたのは、中川肇・宿谷光雄・宿谷忠
二郎の3氏でした。
D換地会議提出資料から
昭和50年(1975)2月2日付提出の、換地会議提出資料が残っていましたので記載します。
【団地計画の内容】
関係農家数(n)
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団地数
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集団化率
Q-n
(1−
―――)×100%
p-n
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1団地当り面積
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従前の
土地(P)
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換地処分後の土地(Q)
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従前の土地
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換地処分後の土地
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89戸
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306
(445筆)
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147
(156筆)
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78%
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10a
|
30a
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【換地処分等の予定時期】
・換地計画に係る土地改良事業の工事完了(予定)時期 昭和49年3月
・確定測量の実施予定時期 自昭和49年8月1日 至昭和49年12月
・換地処分予定時期 昭和50年3月(1975年3月)
(2)ゴルフ場開発等
当区には、昭和49年(1974)11月にオープンした「
名神竜王カントリー倶楽部」(18ホール)と平成12年
(2000)4月にオープンした「ベアズパウジャパン
カン
トリークラブ」(18ホール)の2つのゴルフ場があります。
また昭和52年(1977)に運転が開始された関西電力
鰍フ甲賀制御所・甲賀変電所があります。ゴルフ場
開発に
ついては、広大な用地を必要とするところか
ら、地主の協力が欠かすことが出来ず、現在に至るま
で両ゴルフ場とも区や地主と相互に協力しながら運営 |
名神竜王カントリー倶楽部
入口(左側) |
されています。
@名神竜王カントリー倶楽部
早くから開発の話がありましたが、県指定の砂
防林地域があり、この解除に大変苦労されたと
のことです。オープン当初の昭和49年には、
当区の公民館が本クラブの資金援助を受け
改築しています。
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(3)電灯
いつ頃に電灯が点いたのかは定かではありませんが、公民館には大正6年8月吉日付の「電
柱建設承諾書」が残っています(次の写真)。 |
この承諾書によると、電柱の本柱・支
柱に応じた敷地料金表と該当者名簿
の明細が記載されてこの資料から推
測すると、その翌年か翌々年には電
灯が点いたのではなかろうかと思われ
ます。文明社会への一歩であり大変喜
ばれたことでしょう。
なお、昭和2年(1927)には、電燈料を
区で集金していたようです。「電燈料集
金簿」と表記された書類が残っています。
(右下の写真:昭和2年〜3年度) |
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中を開けてみると、各戸の世帯主の氏名と共に電灯代が記され、領収印が押してあります。
電灯が点いた当初から約10年位経っています?から、各戸により1家で電灯1灯(はだか
電球1灯)から数灯が引かれていたのだろうと推測されます。家により金額に相違があります。
また、戦後の昭和20年代後半頃には電気料金が従量制となり「メートル」又は「メートルにし
てもらう」と言い、各部屋まで配線工事が行われ、どの部屋でも電灯が灯り大変喜んだもので
した。
(4)電話
「電話」と言えば、昔は日本電信電話公社(略称「電々公社」)、(逓信省・電気通信省を経て
昭和27年(1952)に電々公社に引き継ぎ)の電話のことで固定電話のことでしたが、現在で
は電々公社は平成11年(1999)に民営化(株式会社化)され略称NTTに、また移動体電話
(携帯電話や船舶電話等)やインターネット電話の普及と相まって、通信業界は様変わりして
います。
今では、NTTの固定電話より移動体電話(携帯電話等)の方が、契約回線が多くな
っており、携帯電話も通信技術の日進月歩で取扱い会社も統合や合併で、現在ではほぼ3社
(NTTドコモ、au、ソフトバンク)が市場を占有しています。
携帯電話は、今では単なる通話機能のみではなく、メール機能・カメラ機能・インターネット機
能・ツール系機能(財布代わり・GPS・乗車券代わり・辞書・遠隔操作機能等)等、多機能化の
一方です。
この便利な携帯電話も、小学生や中学生は原則学校には持って行けないが、持っ
て行っている児童がいる、また習い事等ではほとんどが持っていっているようです。このため、
出会い系サイト等有害サイトの利用等による犯罪が増え問題化しており、小・中学校への持ち
込みを既に禁止した府県や禁止を検討している県が出ているところです。また、文部科学省
は、平成21年1月30日付で『携帯電話は、学校における教育活動に直接必要のない物であ
ることから、小・中学校においては、学校への児童生徒の携帯電話の持込みについては、原
則禁止とすべきであること』との通達を、各都道府県の教育長等あてに出しています。
公社電話については、昭和20年代後半頃には、春日では数軒に電話が引かれていたと記憶
しています。東は幡野剛氏(当時は春日で唯一のたばこ屋であった)宅・平林法時氏宅、西は
西田宏氏(造り酒屋であった)宅・北村佳晴氏(仕出し屋・魚市)宅に公衆電話的な電話があり、
掛ける場合はいずれかの家まで掛けに行ったものです。逆に相手から掛って来た時は、「電話
です」と呼びに来てもらっていました。
当時の電話は、市内(水口町内)間は交換手により相手番号に繋いでもらっていた手動方式
(「こちらは何番ですが何番をお願いします」と言い繋いでもらっていた)であり、市外は一旦電
話を切り、後刻に「どこどこの何番におつなぎします」との交換手の案内で電話が出来たもの
でした。
更にその後、公社電話は普及し、春日でも昭和50年(1975)代にはほぼ全世帯で電話を
引かれたようです。今でも大半の家庭が固定電話と有線電話を引かれています。(また、携帯
電話は仕事と個人用の2台等複数台持っている人も多いようです。)
(5)有線電話(有線放送)
有線放送(有線電話、通常は単に「有線」と言っている)は、昭和39年頃に全戸で採用され、
この有線電話で各戸間の通話がいつでも可能となり、各種案内等の放送ともども大変便利と
なり喜んだものでした。ただし、導入当初は約8〜9軒で1回線となっていたため、いずれかの
家が通話されていた場合は他の家は通話が出来ず、その家の通話が終わるまで待たなけれ
ばならないという不便な面もありました。しかし便利な点は、有線本部を呼び出せば他の市町
村の公社電話への通話が出来たことであったので、勤務先から有線本部に電話し自宅の有
線電話につないでもらい通話出来たことでした。
有線放送の機能の一つに「ページング放送」(区別放送)があります。これは春日地区内宛て
の放送が、公民館や区長等役員の自宅の有線電話から何時でも出来る機能です。区や老人
クラブ等では、この機能を利用して区行事や老人クラブのゲートボールの練習の案内等に利
用しています。
(6)テレビの共同アンテナ
テレビは昭和34年(1959)の今上天皇のご成婚及び昭和39年(1964)の東京オリンピッ
ク時に一気に大普及しましたが、春日は山間地の為VHFアンテナでは綺麗な画面が見られな
かったため、15軒程度により共同アンテナを上げ、そこから各家まで同軸ケーブルを配線し
てテレビを見ていました。春日では数か所で共同アンテナを利用されていました。
その後、昭和59年(1984)に水口テレビ(社名変更により、現在の甲賀ケーブルネットワー
ク)のサービス開始により、共同アンテナ利用のほとんどの家が加入されたことから、共同アン
テナはその役目を終えています。
(7)拡声器等による一斉放送、一斉連絡
@サイレンの利用
区民への一斉案内・一斉連絡の方法として、昔は公民館の屋根に、また現在の公民館では
屋上にサイレンが付けてあり、総集会等では開始時刻に鳴らしていました。その他、火事等の
緊急時にも利用していました。
A
拡声器(スピーカー)の利用
吉田喜博氏宅の裏の畑(春日の中央で小高い場所)にスピーカーが東西に向け2基設置して
あり、区民への一斉案内・一斉連絡等に公民館から放送する仕組みになっていました。
その後、有線放送等の導入により廃止されています。
(8)農業集落排水(農村下水道)
農村下水道は、農村地域の水質保全や生活環境
の改善を図り、併せて、琵琶湖をはじめとする公共
用水域の水質保全に貢献するため整備が進められ
た事業で、簡単に言えば、農村のトイレ、台所、風呂
場などの汚水を集めて、これをきれいにする事業で
す。当区では、平成2年(1990)頃から話が出始
め、平成5年(1993)に八田との合同による「八田・
春日農業集落排水事業組合」が設立しました。そして
順調に事業が進み平成8年(1996)には一部で供 |
(八田・春日農業集落排水処理施設) |
|
用開始となりました。
供用開始当初は、毎週1回(原則土曜日)に下水処理施設の清掃を2軒(2名)の輪番制で行ってい
ましたが、平成16年からは町(市)にすべて移行され、各家による清掃作業の出役はなくなりました。
伴谷の他地区は、農村下水ではなく公共下水の設備となっています。農村下水の使用料は、
1カ月当たり基本料2,000円+1人当たり300円(7人家族であれば4,100円)です。公共
下水が上水道の使用量に比例しているのとでは異なっています。
(参考)
滋賀県は、「農業集落排水事業」を全国に先駆けて実施してきたとのことで、平成17年(2005)3月末現在にお
いて全国で2番目に整備が進んだ県です。「整備率」は94.3とのこと。1位は兵庫県3位は長野県で、全国平均
は43.3%です。
農村下水の施設が出来るまでにトイレを水洗トイレとする場合は、各戸が合併浄化槽を地中に埋めて処理をしてい
ました。合併浄化槽は農村下水の宅内工事時に撤去しています。
(9)消防機器の変遷
むかし使われていた古い消防車(消防機器)
が、消防車庫の横及び春日神社地蔵堂裏側
の回廊の天井に吊り下げられた状態で保存さ
れています。
右及び右下の写真のとおりです。いつ頃まで
使用されていたのか詳細は不明です。なお、
現在の消防(防災)の組織については、従来
からの消防団がありますが、平成20年4月1
日から市等の要請により「春日自主防災会」
がスタートしています。消防団は、この自主防
災会の組織上では一加入団体となっており、
主に消防活動と火災(防災)予防等の任務を
担当してもらっています。
|
春日神社地蔵堂の回廊天井に吊り下げられた状態で保存
されている |
消防車庫の横に置かれている。伴谷村と記載あり昭和30
年以前と思われる。吸込みホースの先にはじゃかごが付い
ている。伴谷と書かれたまといもある |
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(10)公民館
現在の公民館は、2代目で昭和49年(1
947)に東神商事梶i名神竜王カントリー
倶楽部)からの資金援助をいただき完成し
たものです。その後、平成6年に大屋根等
の改修を行っていますが、この時も同カン
トリー倶楽部から資金協力をいただいてい
ます。
初代の公民館は、現在の公民館と同じ場
|
日の中心地にある公民館:老人憩の家 |
所にあり、水口の某家の母屋(和風木造平屋建て)を移築したもので、移築については区民の
応援を得て行われたと聞いています。公民館が出来るまでは、渓蓮寺境内に集会所(会所)が
あり(現在はない)、会議等はこの会所や本堂を、また、春日神社の社務所も必要に応じて利
用していたようです。
(11)草の根広場
圃場整備事業に伴い完成したもので、当
初は幅が狭くゲートボール等も十分な利用
がしにく
かったことから、以降に拡幅したも
のです。
現在では、ゲートボールは4コート確保でき
、遊具・砂場、トイレ等も設置しています。
|
「春日草の根広場」
ゲートボールを楽しむ老人クラブ会員)
(向う側正面の建物は春日公民館) |
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