14.教 育

 (1)江戸、明治、大正、昭和戦前・戦中時代の子どもの教育 
    @寺子屋から敬心学校へ
    
江戸時代(1603〜1867)の中頃になると、わが国全体で、農業・商工業等の生活活動が
     向上し、周りの村々や他の地域の人々との交流も盛んになってきて、一般庶民も文字の読
     み書きや計算する能力を身につけることが望ましくなって来ました。このような時代の流れの
     中で、庶民に主として読み書きそろばんを教えた場が、僧侶や地域の有識文化人でもあった
     有力者が師匠となった寺子屋、あるいは手習塾でした。昔は畑村と言った春日でも、寺小屋
     は西田忠兵衛方で始められ(創設期不明)ましたが、まだまだすべての子どもが通える所で
     はありませんでした。この寺子屋は、明治新政府によって公立小学校の制度が作られた明
     治5年(1872)の翌年、明治6年(1873)まで続けられ、最後の年の生徒は男子18名、女
     子2名でした。
    

     明治に入って、近代国家の成立を
     急ぐ明治新政府は、明治5年(18
     72)、国民の全てが学校で学ぶ教
     育制度を目指して「学制」を制定し
     ました。これを受けて伴谷地区で
     は、明治7年(1874)3月に、畑村
     (春日)に敬心学校、伴中山村に餘
     (余)力学校7月に山村に行文学
     校(明治14年まで松尾の子どもも
     通学)が公立下等小学校として創
     設されました。余力学校からは明
     治13年(1880)に下山学校
が分

   

      離開校しました。
       
敬心学校は最初、春日の渓蓮寺(本校)と八田の西栄寺(分校)の既存の建物を校舎とし
      て開校されました。しかし、狭かったので翌明治8年(1875)に校舎を新築する協議がなさ
      れ、春日の西、八田からの通学にも便利な春日村字谷口地先に224坪(740u)の敷地
      を求めた上で、校舎を新築し移転しました。なお、その後も敷地の拡張、校舎増築が繰り返
      され、明治13年(1880)に、敷地356坪(1177u)の敬心学校が完成しました。
      敬心学校は、
6歳で入学する4年制の小学校で、春日の子どもと八田村の子どもが一緒に学ぶ

      学校でした。学校は今とは異なり
      半年ごとに試験で進級する8級制で、
      入学時は初等科第8級に入学し落
   第せずに2年経つと中科第4級  
      に進みそれから2年勉強して中等科
      第1級を終えて卒業しました。
      成績の良かった卒業生が正規の
     教師を
助けて教える「助教」を務め
      たりもしていました。当時の春日・八
      田地区の学齢児(学校へ行く必要
    
のある児童)数、就学児(敬心学校


   敬心学校卒業証書(明治121879)〜191886)年度、各年度春秋の2回)

      で学んだ児童)数、就学率は、次表のとおりです。
                                             
敬心学校年度別児童数・就学率

明治

学齢児  (人)

就学児 (人)

就学率  (%)

男子

女子

男子

女子

男子

女子

70

50

120

41

0

41

58.6%

0.0%

34.2%

8

78

58

136

54

3

57

69.2

5.2

41.9

9

75

54

129

49

7

56

65.3

13.0

43.4

10

76

59

135

48

4

52

63.2

6.8

38.5

11

81

68

149

46

12

58

56.8

17.6

38.9

12

74

63

137

60

24

84

81.1

38.1

61.3

13

78

65

143

59

22

81

75.6

33.8

56.6

14

79

72

151

57

28

85

72.2

38.9

56.3

15

72

68

140

74※

58

132

100.0

85.3

92.9

16

70

77

147

72※

47

119

100.0

61.0

79.6

17

75

76

151

72

49

121

96.0

64.5

80.1

18

84

82

166

75

49

124

89.3

59.8

74.7

19

90

89

179

 

 

 

 

 

 

                         「伴谷教育百年の歩み」より作表
                   
※・学齢児より就学児の方が多いのは、落第制度があったからか?

                                                     
各学校別就学率の推移      (単位:%)

     先の表も合わせて、就学率をみると学
     校設立後、年を経るに従いその値は増
     加していますが、明治新政府のすべて
  の子どもが学校に通い「・・村に不学の
  家、不学の人なく・・・」という悲願の達成
  は、授業料が月額50銭(当時の米1斗
  分)
必要だったこともあり、簡単には実
  現しませんでした(伴谷教育百年の歩
  み)。それでも敬心学校の場合、男子の
  就学率は最初から約6割以上でしたが
  女子の就学率は、次第に改善されてい
  くとはいえ、男子と比べてかなり低く、女
     子も教育を受けることの重要性が広く理
     解されるためにはまだまだ日時が必要
     でした。
なお、明治15年(1882)の春

明治

敬心

餘(余)力

行文

(春日)

(伴中山)

下山

(山)

7

34.2

 

  下山学校

M13年に余力から分離開校

 

8

41.9

57.2

41.6

9

43.4

59.4

47.6

10

38.5

58.1

41.3

11

38.9

57.7

31.7

12

61.3

51.7

37.6

13

56.9

72.2

48.2

24.2

14

56.3

40.0

40.6

41.3

15

94.3

50.0

64.5

62.5

16

80.9

92.3

66.7

64.8

17

80.1

72.7

75.0

87.2

18

74.7

61.1

64.3

65.1

       日村の予算書によると、同年の小学校の教育費として195円と、同新築費15円(積み立てか、
     借入金の返済か?)が計上されています。
      敬心学校、余力学校、行文学校区の就学率を比較してみると、敬心学校の通学区である春
     日村、八田村の児童の就学率は設立当初(全国平均27%)はともかく、他村より高率でした。
      
     
              右の「日本読本 第五」1ページ(明治192

 
     日本読本 第五           本読本 第二(定価8銭)
  
(明治19年(18862月)              (明治192月)

   A春日尋常小学校

         明治19年(1886)になって、国の教育制度
     は大きく変
わり、新しい小学校令が公布され
    ました。当地の学校の仕組みも大きく変わり
    春日・八田・下山・伴中山・山の各村の敬心
    ・下山・余力・行文の4小学校は1校に統合
    され、当時、甲賀郡第2区の下田、八田、春
    日、下山、伴中山、山の6村の連合戸長役
    場が置かれていた春日村に、先の6村を校
    区とする春日尋常小学校(4年制)が創設さ
    れました。
   春日尋常小学校には、下田村の子どもた
    ちも通学していました。さらに、学業を続け
  ることが困難な児童のための簡易科も春日
    と下山に設けられ、山村には、春日尋常小
    学校の分教場がおかれました。翌明治20
    年(1887)、わずか1年で簡易科は廃止さ
    れて、伴中山に春日尋常小学校の支校が
    置かれました。
      さらに明治21年には春日尋常小学校は
    伴谿尋常小学校改称されました。この頃、
    学校の変容はめまぐるしく変わりました
     治22年(
1889)は、明治の大合併で下田
    村が春日圏から分離独立し、八田・春日・下
   
山・伴中山・山村が合併して「伴谷村」が誕
    生した年でしたが、伴谿尋常小学校の本校
    は伴中山に移り、春日尋常小学校はその
    支校となりました。こ れもわずか1年で、明
     治23年には、伴谷村の小学校
は伴中山の「
    中山尋 常小学校」、春日の「春日尋常小学
    校」、山の「上山尋常小学校」の3校に分割
  
改制されました。その頃(明治25年)の小学
     
校の授業料は、各家の経済状態に応じて3
      銭から
25銭でした。


               「春日尋常小学校の学習証書」
     
(左:明治331900)年328日、右:明治27328日付)
    
           日本修身書 巻五」(最終ページ)
               定価 入門一 金
35厘  入門二 金5
                 一〜六 金
55厘        明治26年(1893年)
   
        日本修身書 尋常小学生徒用 巻六・巻五・巻四
                     (明治26(1893)年6月)

       明治26年(1893)には3小学校に、毎日放課後2時間、尋常小学校卒業後の社会生活に
     役立つような修身(道徳)と実用的な科目(読み書きそろばん、書類・文書作成)の授業が行わ
     れる補修科も設けられました。

 
     日本修身書巻四、尋常小学生徒用 1ページ
                
(明治26(1893)年9月発行)
   
     尋常小学読本 巻11(大正3年(1914)10月15日発行)(定価 9銭)

    B甲賀学校
    
常小学校卒業後のことと言えば、当時の小学校令では尋常小学校卒業後、希望者は高等
     小学校へ進むことができましたが、最初は甲賀郡内にわずか1校、水口に郡内の有志町村の
    出資による学校組合立の高等科甲賀小学校(一般に甲賀学校と呼ばれ、明治19年(1886)
     設立、同20年開校。明治25年水口高等小学校と改称)があるだけで、伴谷村は明治28年
    (1895)に同組合に加入しています。高等小学校卒業後に進学した人は、今日の中学生と同
    じよう
に遠路を通学しなければならなかった訳です。この年、尋常小学校卒業後のための教
    育の場であった伴谷地区3小学校の補習科はその役割を高等小学校に託して、廃止となりま
    した。

    C一村一校の伴谷小学校:伴谷尋常小学校から伴谷尋常高等小学校へ
        明治24年(1890)に春日・中山・上山尋常小学校の3校で再出発した伴谷地区の小学校
     は全国一律に政府の強い指導のもと同年発布され、第2次世界大戦敗戦(1945)まで、わ
    が国の教育の拠り所とされてきた「教育勅語」に沿った教育内容・教育体制を整えていくことに
   
  なりました。明治33年(1900)には、初等科4年が無償義務制となり、小学校教育が受けや
    すくなりました。
        明治34年(1901)、伴谷村は小学校の統合を図り、伴中山の智禅院の境内にあった中山
     小学校を改称して伴谷尋常小学校の本校とし、春日尋常小学校を上山尋常小学校とともにそ
     の分教場としていましたが、明治37年(1904)には両分教場を廃止して、村内すべての子ど
     もが一緒に学ぶ小学校を新築開校することとなりました。その場所は、村内各字からの通学
    
距離を考えて、現在の伴谷小学校の所在地と決まり、工費約9,600円をかけ、伴谷尋常小
     学校が誕生しました。明治40年(1907)、小学校の義務教育は6年に延長され、大正2年(1
     913)にはそれまでは水口まで通わなければならなかった高等科(2年制)も伴谷尋常小学校
    に設置されて、伴谷尋常高等小学校が誕生し、ここに戦前の小学校教育の体制が完成しまし
    た。
   
   ※教育勅語:明治天皇が国民が守らなくてはならないこと(忠君愛国を始めとする多くの儒学的徳目)
      
を説かれたお言葉。学校の式典では校長先生が読み上げ、生徒は、頭を下げて聞きました。小学校
       
4・5年生くらいになると、皆、暗記したものです。

      昭和の初め頃(1930年代)の小学生は、通学にまだ着物を着ている子どもも少なくありませ
    んでした。雪がひどく積もった朝は、青年団の人達が朝早くから雪かきをしてくれた学校まで
    の道を、マントを着て通いました。

    高等科2年の最上級生から尋常科1年生の最
    下級生(8年間の生徒)までが一緒に遊ぶこと
    が多く、けんぱ、かくれんぼ、鬼ごっこ、陣とり、
    がいせん、おはじき、学校ごっこ、めんこ、ビー
    玉、小川を塞き止めての魚とり(かいどり)など
    で遊びました。
     がいせん」は凱旋(戦いに勝って還ること)ある
     い
に分かれて陣地を決め、メンバーはそれぞ
    れは海戦(かいせん)であったのでしょうか。敵
    
味方三すくみの関係にある。「こうてつ」(甲鉄
    艦)、「すいらい」(水雷艇)、「ほうかん」(砲艦)

 
           昭和6年(1931年)1月発行、定価18銭

   のどれかとなり、その標識を胸ポケットにつけて、互いに助け合いながら(小学1年の砲艦
    水雷に弱い高等2の甲鉄を守ってやることができる)、自分より弱い敵を撃沈(タッチ)してゆき
    タッチされずに敵陣へ無事攻め込むことができた方のチームが勝ちとなるゲームでした。学校
    が休みとなる祭日などに、他区とよく試合をしました。戦争ゲームとはいえ、学年・年令の差を
    越えて共同、相互援助を体験させてくれる遊びでした。
      氏神の神社の大祭への全員参加、日曜日ごとの神社の清掃奉仕、田植え時の苗代でのニ
    カメイチュウの卵や成虫蛾の駆除も学校と結びついた小学生の大事な郷土社会への参加活
    動でした。
  D戦争と国民学校

      昭和12年(1937)日本と中国の間に戦争
    が始まると、国を挙げての軍国主義は、小学
    校教育をも大きく変えました。徴兵されて軍隊
    に入る兵士を三雲駅まで見送る集団の先頭
    で、ラッパと太鼓を演奏しつつ行進するのは
    高等科の生徒の役務となっていました。食糧
    増産が叫ばれ、学校の裏山が開墾され豚が
    飼育されたり、運動場が薩摩芋畑に変わった
    りしました。


            昭和10年(1935年)の伴谷小学校

     始まりは定かではありませんが、昭和15・16年頃までは日曜日には、渓蓮寺住職による小
    学生のための日曜学校があり、子どもたちは住職が演じる指人形劇や、紙芝居、ある時は宗
    教歌の練習、遠足にとその日を楽しみにしていました。  
     
日本が世界を相手に戦争を始めてしまうことになった昭和16年(1941)の太平洋戦争(第
    二次世界大戦)開戦間際の4月に出た国民学校令に基づき、伴谷尋常高等小学校は、初等
    科6年と高等科2年の伴谷国民学校となりました。この国民学校の教育目標は、先に述べた
    教育勅語の精神の徹底的体現と天皇中心の国粋主義に生きる小国民の錬成でありました。
       
こうして小学生も、戦争に巻き込まれていきました。戦争の初期には、ゴムの産地を占領し
    たと「早寝早起きニコニコピョンピョン」と表面に印刷された小さなゴム鞠が全生徒に配られた
    りしたこともありましたが、父親を、兄を、叔父を戦地に送り出す者が次第に多くなり、それら
    の肉親を戦場で喪った人も多くなりました。
     
子どもたちも、山に紙の木(コウゾ)を、畑の桑の木を、野にカラムシの茎を取りに行き、樹
    皮を剥いて衣料繊維の材料として供出したりして戦争に協力しました。高等科の生徒は昭和
    20年4月からは、戦時非常事態であるということで授業はなく(戦時教育令)、ほとんど毎日
    が戦力増強を名目とする奉仕作業や農業実習でした。卒業を待たず、志願して軍隊に入った
    人(最後の入隊者は昭和5年(1930)生まれ、当時14歳)、強制的な動員で、家を離れ、工
    場で働き、琵琶湖の埋め立てに汗を流した人も少なくありませんでした。
      しかし戦況は次第に悪化し、空襲がひどくなってきて、危険な都会から縁故をたよって春日へ
    疎開してくる人達も少なくありませんでした。終戦(昭和20年8月15日)間近の昭和20年8月
    2日に、大阪市西成区の市立津守国民学校の児童が、家族と別れて先生に引率され、それま
    での疎開していた和歌山市も危険だと、より安全な地を伴谷に求め、渓蓮寺へも集団で疎開し
    て来ました。疎開児童のため区長や処女会(女子青年会)の人たちを中心に、少ない米を持ち
    寄ったり、炊事をしたりして感謝されたと言うことです。
      戦争による物資不足でノート、鉛筆、消しゴム等の文房具も手に入りにくく、通学・運動用の
    ズック靴もなく、子どもたちは「ほしがりません勝つまでは」を合言葉として祖父母が作ってくれ
    た藁草履をはき、空襲に備えて綿の入った防空頭巾と、農村の春日でも麦や薩摩芋或いは
    大豆が沢山入った弁当を持って通学するようになっていましたが、昭和20年8月15日、よう
    やく戦争は終わりました。
   (3)義務教育修了後の学校教育
      明治15年(1882)の春日村の教育関係予算には裁縫科15円が計上されていますが、裁
    縫科の教育がどこでどのようになされていたのかは不明です。しかし、明治39年(1906)の
    伴谷村立裁縫学校設立よりはるかに早く、当時の女性にとって不可欠な生活技術習得の教
    育への公費の支出は、特記に値します。
      明治政府は国の近代化のための産業教育を重視し、明治26年(1893)、小学校卒業生を
    対象とする実業補習学校を小学校に付設することにしましたが、なかなか普及しませんでした。
    伴谷村では明治25年に伴谷夜学会が発足していたようですが、女子教育の充実をはかり、
    明治39年(1906)修身・体操・裁縫の3科目を教える3年制の「伴谷村立伴谷尋常小学校付
    設裁縫学校」を設置しました。同校はその後明治45年に伴谷村立裁縫学校と名称を変え、さ
    らに大正6年(1917)、前年にあたらしい裁縫室が新築されていた小学校に同居の、伴谷村
    立伴谷実業補習学校として生まれ変わりました。

      高等小学校を卒業した男子については、大正15年(1926)に、軍の要望で伴谷尋常高等
    小学校にも青年訓練所が設置されました。ここでは20歳までに400時間もの軍事教練と30
    0時間の学科教育(修身・公民・一般科目・職業科目)が行なわれました。青年訓練所と実業
    補習学校とは重複するところも多く、昭和10年(1935)に、両者を一体化する青年学校令が
    施行され、伴谷青年学校が誕生(昭和14年から男子のみ義務制)しました。青年学校は定時
    制でしたが、その訓練期間は小学校高等科卒業後男子が5年、女子が3年でした。生徒の通
    学は下の写真のように、女子は紺サージの袴姿(戦争が激しくなって、もんぺに変わっていっ
    た)、男子は軍事教練に適した軍服に似た淡い草色の服を着用しました。終戦前までの小学
    校の運動会では、昼休みに青年学校生徒の軍事演習が披露されるのが恒例でした。 
      昭和19年(1944)秋になって、銃を持たない兵隊が国民学校に駐留し、荒地を開墾したり、
    芋を植えたり農耕をするようになり、学校の裁縫室を居住の場として使用したため、裁縫室を
    使えなくなった女子は伴中山百姓村の東光寺を臨時の教室にして学びました。
      男子については兵士養成機関でもあった青年学校は、終戦を機会に生活のために必要な学科、
     技能教育機関に変身しましたが、昭和22年(1947)の学校教育法施行により同年4月1日をもって
     廃止されました。


青年学校の卒業式の記念写真(昭和15年頃)


創立120周年記念式典(平成6年(19941030日)時に配布された下敷

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