11.春日用水の守り

       宇宙科学は大変進んで来ました。右の写真は人工衛星「かぐや」(月周
    回衛星)からの地球の映像です。
     
  この青い地球の美しい地球上に水が沢山有ることを示しています。
    しかし、地球上のどこでも満遍なく水に恵まれているのではありません。
      
水の豊富な日本でも地域によって差があります。
    
春日は接する蒲生郡(現東近江市)などとの分水嶺とる地形に位置し
    利用できる水の少ない地域になっています。水田で稲作中心の農業
    を営んできた先人は水の確保のため水を大切にし、工夫と苦労を重
    ねてこられました。

 (1) 天宮堂と雨乞い
  
その昔、地蔵堂や天狗堂は天宮堂と呼ばれていました。この神聖な地で水不足の解消を願
    って護摩を焚き雨乞いをしていました。
     た、雨乞いだけでなく、早くから大小の溜池を各谷の奥に築き、湧き水や雨水を蓄え、稲作
    用水として利用して来ました。溜池のない谷では上部の田に
常時水を蓄えておくようにして来
    ました。溜池の数は大小40以上もありました。
  池の改修と年貢
  検地が行われ領主や代官に年貢を納めた記録があります。豊臣秀吉の太閤検
地は有名です。

     春日にも延宝7年(1769)の検地帳があります。年貢を
   課す基本台帳の名寄帳 嘉永4年(1851)は、各組毎に
   残っています。
   また、領主や代官が池の改修を勧めていた記録も残っ

    います。
  


  「検地帳」(江州甲賀郡畑村御検地帳)

  
                    
「名寄帳」(嘉永4年(1851)

池 名

年 代

西暦

池の改修内容 等

 

猪谷池

寛永元年  甲子

1624

支配代官 岩七郎【石馬守】

修理堀被成下候

 

明暦元年  乙未

1655

 

明治9年  丁丑

1876

出願取扱修築

 

田首池

元和4年  戊午

1618

池床成る

 

万治2年  己亥

1659

支配代官 岩七郎

 

安政6年 己未

1859

領主 加藤【越中守】

 

寺堤池

慶長元年  丙申

1596

池床成る

 

明和6年  己丑

1769

領主 加藤相模守

 

大平池

寛永元年  甲子

1624

池床成る

 

万治元年  戌亥

1658

岩七郎

 

享和元年  辛酉

1801

加藤越中守

 

大谷池

 

 

 

 

川窪池

慶長15年  庚戌

1610

池床成る

安養坊池

宝永7年  庚寅

1710

領主鳥居忠救

長池

杉谷池

宝永18年 壬巳

1721

池床成る

 

慶安4年  辛卯

1651

水口城代 山口弘隆但馬守修理

 

芳谷池

慶長15年 庚戌

1610

池床成る

 

瀕谷池

寛文7年  丁未

1667

池床成る

 

貞享3年 丙寅

1686

支配代官猪飼治郎兵衛 修理被成下候

 

安政元年  甲寅

1854

領主加藤越中守 修築取扱被成下候

 

養津喰池

寛文4年  甲辰

1664

池床成る

 

明治9年  丙子

1876

滋賀県へ出願修築取扱仕候

 

宮ヶ谷池

慶長19年 甲寅

1614

池床成る

 

天和2年  壬戌

1682

支配代官猪飼治郎兵衛 修理被成下候

 

明治6年  己丑

1873

領主加藤相模守 修理被成下候

 

明治10年  丁丑

1877

滋賀県へ出願修築取扱仕候

 

松池

 

 

 

 

薑谷池

 

 

 

 


    (3)溜池
    春日(畑村)は、土地が高くどこからも水が流れて来ることがありません。そのため昔から谷
    の一番上に溜池を作って農業の水を確保して来ました。
    
春日村地誌(明治8年:1875)によると数十の溜池を随所に作り雨水を蓄えていたとあります。
       
村池では安養坊池、杉谷池、田首池、猪ヶ谷池、芳谷池、寺堤池、大平池、瀕谷池、宮ヶ谷
     
池、養津喰池等、そして村池のない谷では個人の池や仲間の池があり、用水を確保していま
     
した。
      溜池のない谷では、上部の田を早くから耕作(田植えの出来る状態にしておくこと)をし、常時
    
水を蓄え池代わりとして利用していました。
       
これらの水は主に田首川・芳谷川・大平川に流れ、3つの川が一つになり坊谷川となり伴中
     
山へと流れています。春日の西地域の灰坂川・薑谷川は八田へ流れ、祖父川の上流となり
     
湖南市下田へ流れています。
       
なお、溜池のうち灰坂池(通称関電池)は、関西電力の甲賀制御所の開発により、関西電力
     が造成したもので、本池からパイプラインの敷設により宮ヶ谷池まで約2qをポンプアップで 
     送水、更にパイプラインを延ばし、新池からの本管にも接続させて水の確保を図っています。
  
(4)田の水の確保
   
昭和30年(1955)頃まで、前年秋に日照りが続くと翌年春には鋤で田の畦堀をし畦ごねを
     していましたが、耕運機が導入されるようになってからは畦前を機械でこねて田の水が漏れ
     
ない様にして水を確保していました。
       
田の水は、圃場整備をされるまでは田から田へと田越しに流しており、最後に余った水が川
     に流れるようにし、水を大切に利用していました。
   (5)雨乞いの願掛け
    
終戦(1945)頃まで、田植え時期の前後に雨が降らないと、雨乞いがかかり(雨乞いのお
     祈りを行うこととなり)、「日参」・「数参り」・「やなみ灯篭」・「笹踊り」と順次お祈りをし、願掛け
     をしたとのことです。
     @ 日参(1週間のお祈り)
      
雨乞いがかかると、まず「日参祈願」を行ったとのことです。
       日参は、各戸から一人が1週間、各自すきな時間帯に神社に参り、二の鳥居から拝殿下の
     石段まで、“雨降れ”と唱えながら祈願したとのことです。
     A 数参り(1週間のお祈り)
       日参のお祈りをしても雨が降らないと、「数参り祈願」といい、各戸から一人が1週間、各自
     自由な時間帯に神社に行き、境内にある樫の葉10枚を取り、二の鳥居から拝殿下の石段ま
     でをお祈りしながら進み、石段に1枚ずつ葉を置くという(計10回)、祈願をしたとのことです。
     Bやなみ灯篭(1週間のお祈り)
       数参りの祈願をしても雨が降らないと、「やなみ灯篭祈願」といい、各戸から一人が1週間、
     提灯を持って日中に神社に行き、二の鳥居から拝殿下の石段まで提灯を持ちながらお祈り
     する願掛けを行ったとのことです。
     C 笹踊り
     
それでも雨が降らないと「笹踊り祈願」といい、各戸から一人が神社に集まり、「雨降れたん
      もれさ、ぶちゃけてたんもれさ」と歌い、笹を持って踊り、太鼓を叩き祈願をしたとのことです。
   (6)灌漑施設
   
@新池(反復池)と逆水パイプライン
        昭和30年(1955)代初め、春日でも近郊地域における工場誘致に伴い住民の多くが勤労
     者として働きに出つつありました。現在、田植えは4月下旬から5月上旬頃に行われています 
      
が、当時は6月に田植えを行うのが通例で、親戚等との結”により人出不足をお互いに助け
     合いながら籾まきから苗取り・田植えまでを行っていた家が多くありました。
      
その頃、日照りが続いて田植えが出来ない年が続き、昭和39年(1964)は6月になっても
      
雨ら降らず溜池には水がなく、田植えが出来ない圃場や、植えた苗が枯れてしまい、止む無
      く近郊地域から苗を譲り受け再度田植えをするという事態まで発生しました。このため、今後
      
の農業(米作り)に不安をいだき、水の必要性を改めて思い知らされました。
         
このような中、節水はもちろん、溜池の改修整備に併せ逆水のパイプライン敷設が検討さ
      れました。 
        この結果、昭和52年(1977)に水田反復利用施設(新池、パイプライン工事、用地代等
      ¥40,383,100、県・町補助、東神商事寄付、関西電力の芳谷池線下補償、借入金等で
       )が目出度く完成しました。このパイプライン敷設のお陰で、日照りが続いてもほとんど水の
      心配がなくなりました。
      A農業用水配管系統図(平成19年(2007)6月 現在)


「新池」(手前を流れる坊谷川から取水し、パイプラインで上流の田や溜池まで逆水の上、農業用水として利用)

    B地下水の利用
     
地下水ポンプは逆水パイプライン敷設以前の昭和49年(1974)頃に、水の確保のため
      野田道の中央当たりの横に地下水をポンプアップし利用して来ました。地下水はおおよそ地
      下100メートル余りから汲み上げていますが、金気がひどいため維持が大変です。
        なお、ポンプアップに係る電気代、草の根広場東端の地下水ポンプの増設については、そ
      れぞれ両ゴルフ場のご厚意をいただいています。
      C溜池の管理
      
春日の溜池は、どれも人工的に作られたものであるため、永年の経過により土手がずれ
       たり水漏れしたり、樋がダメになったり等で、その時々に必要に応じてはがね打ちや樋管工
       事等の改修を行って来ました。
         また、互池(仲間の池)は改修の後、村池(区の池)に変更して来ました。
         なお、人家付近の溜池はどれも防火用水の役目を担っています。
   
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