耕地の基盤整備は、八田が昭和56年(1981) 度着工で、約200反余り耕地の基盤整備が完 了。春日は、昭和48年(1973)度着工で、約29 7反余り耕地の基盤整備が完了。 山は、昭和47年(1972)度着工で、130反余り 耕地の基盤整備が完了。 伴中山は、昭和49年(1974)度着工で、155反の 水田整備と147反の茶畑が整備、昭和61年(1 986)度より県営ほ場整備事業が山、伴中山、下 山で実施され、約1,480反余り耕地の基盤整 備が完了し、農業の近代化が図られました。
八田焼き由来 明暦元年(1655)村人宮治伊兵衛、陶業を志し 京都及び信楽地方の製陶事業の景況を視察帰 村の後、不完全なる陶窯にて製造に着手せしが 村人武藤佐兵衛宮路吉兵衛等と謀り、信楽より 斯業に堪能なる陶工を招致し共同して同村高松 山の土を採り、試みに製造せしに成績良好にし て前途営業の価値あるを以って各自適宜の地を 選び造陶に従事、同族中にも製陶するもの23戸 に及ぶ。製品は素朴なる渋味のある優雅なるも
で、種類は徳利、片口、蓋物、業化は無く、農業の副業として窯2基ありしが時代の流れと陶工 者の死亡等に依って其業を継ぐ者が無く業者も減少して現在では只一戸のみとなり、村人等は この独特の特産物の復活に意を用いて居る現状である。