伴谷は、大字八田、春日、下山、伴中山、山の五大字の総称で明治5年(1872)区制施行の時
甲賀郡第2区に入り同18年(1885)に連合戸長役場を春日に定め、同22年(1889)4月町村制実
施にあたり伴谷村となり、村役場が伴中山に設置されました。明治35年(1902)村是を定め自治
の実績を上げてきましたが、明治43年(1910)2月25日内務省の推賞を受け模範村と称せられ
ました。古代より伴谷は、山直氏が支配し、本拠地でありました。
永久2年(1114)8月源義光が支配し金光院領とし、永く燈明料を納めさせていました。その後園
城寺内金光院に転じ、長寛2年(1164)以後は柏木荘の御厨司の支配下に入っています。
各字の由来
@大字八田 住家75戸
八田は、古く八田勘助の所領で、後に岩根郷の一部で京都眞如寺中正派院所領、天正13年
(1585)水口岡山城主中村一氏、増田長盛、長束正家と次々代わり、伴上野介資光の所領とな
り、元和3年(1617)より國領半兵衛がこれに代わり正太郎に到り明治維新になりました。
八田地区の小字 20小字
勝谷 水口 門田 上出 中出 込田 中尾 芳谷 西畑 井ノ口 寺硲 勝負谷 灰坂
桐山 薊谷 小桐山 イフラ谷 中ノ町 向山 桃木谷
A大字春日 住家109戸
春日は畑村といっていましたが、明治7年(1874)に現在の春日に改称しました。永保3年(1083)
以来伴氏の所領で、建武4年(1337)伴大隅守資景が伴城山に畑村城を築きました。慶長5
年(1600)以後は伴上野介資光の領地となり畑村と八田村を所領していました。慶長7年(1602)
羽柴若狭少将勝俊、慶長10年(1605)鳥居彦左衛門、慶長13年(1608)松平隠岐守、石川主膳
頭、内藤紀伊守に代々交代しました。
寛文3年(1663)以来幕府代官の小堀仁右衛門猪飼治郎兵衛、野田源左衛門中根弥治助等の
代官が管治しました。天和2年(1682)加藤明友が石見より水口に転封となり水口藩が立藩され
、以後水口藩の領地となりました。藩主は一時期鳥居氏に代わっていましたが正徳2年 (1712)
それまでの藩主鳥居忠英に替わって下野壬生より、加藤和泉守嘉矩が水口藩主として転封に
なり再び、加藤氏の領地となりました。
明治維新後、明治4年(1871)の廃藩置県で水口県に属することになり、大津県所属を経てそ
の翌明治5年(1872)滋賀県所属となりました。この時滋賀県は12郡に分けられましたが、甲賀
郡はさらに10区に分けられ、畑村(明治7年(1874)春日村と改称)は八田、下山、伴中山、上、
下、堂(明治8年(1875)合併して山村となる)の伴谷地区の各村と下田村とともに甲賀郡第2区
に入りました。各村の戸籍事務・行政は民選の戸長が担当しました。明治12年(1879)区制は
廃止されましたが明治18年(1885)には、旧甲賀郡第2区の6ヵ村を所管する連合戸長役場が、
区域の中心地である春日村に設置されました。明治22年(1889)
4月1日の市町村制施行によ
り、春日連合戸長役場管内から下田村が分離独立し、八田、春日、下山、伴中山、山の各村は
合併し、伴谷村が誕生、初代村長には春日の西田忠兵衛さんが選ばれ、村役場は伴中山に設
置されました。
春日地区の小字 52小字
猪ヶ谷 外輪 阪ノ橋 新打ヶ谷 山女谷 大砂溜 田首 兎谷 川窪 安養坊 平田 杉
谷 泓 芳谷 後谷 振り合 内垣内 名及出 岨出 円山 大谷 囲碁木 峯道 大平
田中出 平林 寺堤 野田 清水 坊谷 竹ノ下 四ッ辻 稲葉 松ヶ崎 地蔵前 瀕谷
宮ヶ谷 四方谷 西出 谷口 伴城 安垣 杭原 西裏 谷田 養津喰 向出 藤谷 阪ノ
浦 灰坂 高松 薑谷
B大字下山 住家75戸
下山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る下山郷です。延長
年間伴太郎左衛門氏大原郷より移り治所を下山に置き所領した。慶長5年(1600)長束正家亡
後伴上野介資光の所領となり、慶長7年(1602)松平隠岐守、元和9年(1623)年堀田加賀守、寛
永4年(1627)二分して徳川家の旗本美濃部文左衛門と水口城代小堀遠江守の管轄となり、山
口但馬守、野田三郎左衛門等の城代と代官を経て寛文元年(1661)葦蒲観音寺下に入り、寛文
3年(1663)に小堀、前守美濃部氏、石原清左衛門の支配下となり、宝暦3年(1753)小笠原能登
守、文化10年(1813)井上河内守、天保7年(1836)多羅尾久左衛門、天保11年
(1840)水野越前守、再度多羅尾氏の支配下となり、弘化4年(1847)松平周防守の支配下となり
明治維新となりました。
下山地区の小字 13小字
迎山 柳瀬 市場 引坊 二反田 大沢 広野 細ヶ谷 牛飼塚 細佐 大谷 下ノ前
前田
C大字伴中山 住家110戸
伴中山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る中山郷です。
中山民部丞の所領後柏木御厨司職山中氏の管治下となった。
応仁以来再度伴氏支配下となり天正13年(1585)中村一氏、増田長盛、長束正家と代わり伴上
野介資光氏、伴勘左衛門氏の所領となり、寛永11年(1634)水口城代小堀遠江守や代官平岡
四郎左衛門、鳥居伊賀守となり、正徳2年(1712)加藤和泉守より世襲することとなる。
明和8年(1771)旗本美濃部伊織の支配下、天明以後代官は岩出伊右衛門、多羅尾四郎右衛
門、天保4年(1883)稲葉長門守の堤封に入り子孫世襲することとなり、明治維新となりました。
伴中山地区の小字 20小字
笹尾 正保 座禅坊 平尾 中切 百姓村 小谷 六反田 馳登 峯道 杭原 彼岸田
岩谷 西浦 村外 神田 城下 北山 椎ノ木谷 芳ヶ谷
D大字山
住家120余戸
山は、神宮領柏木御厨司五郷の一つで、元徳3年(1331)注進目録に出る上山郷です。上山
新八郎、上三郎、田中伝八郎宗秀の所領後柏木御厨司職山中氏の管治下で天正13年(1585)
中村一氏、増田長盛、長束正家と代わり、慶長5年(1600)伴上野介資光氏、慶長7年(1602)旗
本林伝右衛門、慶長13年(1608)松平隠岐守、元和4年(1618)
内藤紀伊守、寛永4年(1627)代
官土井大炊頭、延宝3年(1675) 代官吉川半兵衛、天和2年(1682)加藤内蔵助所領、元禄8年
(1695)鳥居伊賀守所領、正徳2年 (1712)
再度加藤氏の所領となり世襲後明治維新となる。
また、菅原道真公太宰府に配島され、その子淳茂郷京より水口の美濃部に移り住み堂村にあ
る観音堂内の十一面観世音菩薩に深く帰依し、父の勅勘の解かれる事を祈ったが、道真公異
国で亡くなるや悲嘆にくれ水口の地の檀を築き、父と自身の画像を掲げ又一尺余の円石を尊前
に据え置き日夜礼拝を怠らなかった。この心が通じ後に公の復検と自身も勅勘を解かれた。
菅原家は、後に美濃部氏となった。
山地区の小字 34小字
廻田 高ソネ 小松尾 吉平 白山 畦八丁 菖蒲谷 東谷 上ノ山 松葉沢 柳谷
千代坊 北小野 栂畑 北谷 峯道 下代 西谷 西村 前ノ谷 菅谷 大平 田引
竹ノ鼻 岩谷 百々谷 向山 南前 長谷 南谷 勘定ヶ谷 向出 栗ノ木谷 千丁
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