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役の行者像
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【由緒】 開基は隆阿上人にして大永元年で、その後廃絶同様となった。
享保11年中興恵立上人により再興し、旭照山東光寺と号し京都智恩院の末寺に属
し、当寺は徳川氏の旗本美濃部八十郎氏の寺であり、当時は檀家50戸、現在檀
家23戸境内地 228坪 墓地100坪。
【本尊】 阿弥陀如来 脇佛 勢至 観音貮菩薩 善導宗祖両大師 誕生佛
【主たる什宝】 華鬢 元禄12年3月の在銘 双盤 享保11年2月の在銘半鐘 寛延4年1
月の在銘。涅槃像 一幅 立巾・横巾6尺明治以降 檀家減少に伴い維持の窮迫
を来たし,明治35年以来住職を置けず兼務を懇請し漸く祭事を勤める。
中興より最後の瑞円和尚で26世。
行者講の始まりは定かで無いが明治以前は東光寺の前(富田健治氏)南側、南東隅に一段
高い約 (2米)30坪余りの台地があり中央に10坪余りの建物の跡が残されている。通称行者
山と昔から伝えられ、現在は寺山として管理されている。
昭和60年頃までは毎月6日に講が勤められていたが近年は月末の常会の日に合わせて勤
められている。御厨子内には木像の役の行者像が祭られており、時代は定かでは無いが余
りにも立派な物なので遠路より拝観に来られる方もある。
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6.津島神社
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【由緒】
津島神社の勧請。当垣内北東の
隅に年代は不詳なれど(江戸中期)
頃、地区に疫病大発生し此れを鎮
めんとし。村人、愛知県津島神社を
勧請近年までは7月14日を祭典日
とし当番村人、で現在も津島神社
に 代参する。
境内地 約30坪
【境内】 昭和22〜23年頃までは毎年夏祭り
として(涼み)青年たちの素人芝居
や戦後食糧難の時代は、NHKのラ
ジオ等で活躍されている超一流の浪
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曲師等が食料を求めて来演され、近郷でも有名になり賑わった。
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7.埋葬墓地 平尾墓地 【比羅尾】 |
明治の始め、疫病等、大流行し、其れまで各寺院
共寺内の墓地に埋葬されていたが、衛生上の観点
から 平尾地先、寺山隣地、山村境界の山林4反歩
余りを富田譽兵衛氏(喜与一)氏より東光寺に寄進
戴き、伴中山、山の5か寺の共同墓地と成る。
六体地藏。六字名号塔には東光寺の銘が刻まれて
いる。 |
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8.埋葬墓地 良徳寺墓地 |
埋葬地 字笹尾(ダンゴ田)に在る。
明治初期の頃に伴中山区を三十八社を境
として二分し、東は平尾、西は笹尾となった。
良徳寺は北山、通称ハン木谷の一角にあ
り、昭和の構造改善事業に開拓され、遺骨
等多数出土、尚、良徳寺の西隅にも埋葬棺
遺跡骨が出土し共に供養した。
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旧宝蔵寺廃寺痕。(天台宗)座禅坊
現田林賢三氏 南東。最近まで墓石があった。ここの本尊阿弥陀如来。
坐像は現在良徳寺の本尊と伝えられている。創立不明。元亀年間織田信長の焼き討ちによ
り消失し廃寺となった。
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