3.甲賀武士と伴中山

   甲賀五十三家の内三家は伴中山城主
   中山民部丞は、大字伴中山字神田、西出城主で伴中山の祖、伴一族。
   伴 播磨守、大字伴中山字城下、伴中山城主で現在下山の祖。
   美濃部彦左衛門。八兵衛、家は伴氏より遙かに古い由緒があり(菅氏の末裔)で菅原三郎
  直茂から後孫茂満の頃(徳川家康、本能寺の変直後、伊賀越えを助けた甲賀武士団の頭領
  で其の功績により徳川300年間旗本として続いた。
   百姓村に蔵屋敷(居館)あり。西出の西光寺、再興す。

 4.伴中山の城

 1.伴中山城
   大字伴中山字城下
   富田与平氏宅の北山、土盛高3m、内面積2,000u。現在城下、前の県道は堀跡を埋め
  立て道幅を拡幅されたものである。
  城主、伴 播磨守。伴 左京亮。伴 太郎左衛門尉資家、資家は本能寺の変で信長と共に討ち
  死にし、遺子資則安土城下に移住し、天正14年豊臣秀次八幡山に城を築きし時八幡に移り,
  刀剣を脱して商人となり、志を立て地方物産を関東各地に天秤棒を肩にして行商し、寛永年
  間徳川氏開府の時、機敏にも武蔵野の草を掃い率先、日本橋に店を開き、近江商人の第一
  号八幡在、近江屋、伴伝兵衛商店の故郷伴中山城。今も近江八幡市の資料館として、亦、明
  治維新後は八幡小学校、八幡町役場、近江兄弟社図書館として、伴伝兵衛家は、市に寄贈さ
  れ今も豪商の名残を伝えている。(明治40年発行八幡商業高、近江商人記、八幡、市誌より) 

          
           旧 伴 家住宅

 2.西出城
   大字伴中山字神田
   木林栄一氏宅の東北の山、土盛高3メートル。内面積700u 現在は故平田久一氏の茶
  畑下の土地の名は指南堂と呼ぶ。
   城主、中山民部丞。  伴四郎{伏祐兼。
 3.百姓村城  『居館・蔵屋敷』
   大字伴中山字百姓村
  平田晃氏宅地 故富田英樹氏宅地と畑。内面積1,600u。 城主 徳川の旗本、美濃部八
  兵衛

   思川改修工事までは現在の河川の辺り竹林内に幅、5m余りの堀跡があり、北と西側には
  所々に沼地と水路があつた、東側は現在平尾橋に通じる道路が大正12年、伴谷小学校が改
  築された時、堀跡を埋め立て通学道路となる、先般の下水管敷設工事の時沼地跡の為、矢
  板を打ち込み大変難工事であった。昭和の始頃までは堀の中に石垣を築き年貢米の蔵があ
  った。昔の竹薮の跡は見違えるばかりである。
 4.坊村城
  大字村外 初田克喜氏裏山、現状初田早苗氏畑荒れ。
  城主不明。
  何れも県教育委員会発行(中世城郭分布図)より。