6.伴谷の行政    伴中山の行政

 伴中山の行政   
     昔、村には代官の下に庄屋という役人がいて、村の一切を統括していた。庄屋の選出方法
   は、その村の年寄り肝煎等の協議により推薦し候補者の所得人物等調べ調書を大庄屋に申
  し出て、許可を得て、大庄屋は郡奉行所へ提出認定を受けた。庄屋の給料は年貢米で、年に
   米4石程度で、庄屋の任期は一年交代であった。甲賀郡を10区に分け本村は第二区に属し、
   岩根、朝国、下田、八田、畑、中山、下山、上村、下村、堂村、松尾の11村であった。
     明治22年天皇主権の憲法を制定前の明治21年より現在の伴谷となった。
   明治33年伴谷村役場ができ、村議会議員定数を12名と定め選挙権は、男子戸主であって25
   歳以上で納税資格により選挙権の無い者もあった。議員には1級議員2級議員に分けられ納
   税資格によって選挙が行われた。
     村長、村議会議員の任期は、いずれも4年制で現在もこの制度は変わらない。
   その後、普通選挙法の公布と同時に婦人にも選挙権が得られ男女20歳以上が、その権利、
   義務のあることを法律により制定された。

  地券の発行
     明治3年より伴中山戸長役場にて維新の国家に
  重要なる戸籍の編成、地券の発令等に係られた
  先人の記録によると、「以前の土地の測量は誤差
  甚だしく、地元農民の重税に帰するを訴えその筋
  に於いても之を酌量して、明治9年に至り、再丈量
  を命ぜられその結果約十分の一に該る十町歩の
  減歩を実現し、農民各自が愁眉を啓くと同時に最
  大奮励、調査の分担を任せられてより昼夜の別
  なく、冬季の水田の測量には氷結の土地を踏み、    連月に亘り従事せし事、尋常の業にあらずして、


      甲賀郡 伴中山村 地籍全図

  寝食も儘ならざりし事、実に頻々たりし」とある。当時の伴中山全体の地籍図が三十八社の古
  文書の中から発見され、是に基づき明治11年個人の地権が発生し、滋賀県知事より各自に地
  券が発行されたと考えられる。

  天保一揆の呼びだし状

  一、この度川筋山辺に至るまでご検分につ
  ち昨夜よりまかり出で今十五日夜本揃いに
  候間、残らず出立致させ申さるべく候。不
 
参これ有るにおいては、その村へ押し寄せ
  打ちこはち申すべく候不ものなり。


   天保13年10月15日伴の谷一帯の村に出されたもの
   で、不参加の場合はその村へ押し寄せ打ち壊すとい
   う一揆回状特有の強制の文言が書かれている。この
   回状は甲賀137ケ村ふれまわされた物の実物で旧甲
   賀郡で唯一保存されている貴重文書である。

 

     天保一揆とは1842年(天保13年)10月、野洲郡(今の野洲市・守山市・近江八幡市の一部)栗
   太郡(今の栗東市・草津市・大津市の一部)、甲賀郡(今の甲賀市・湖南市)に住むたくさんの人
   たちが、自分たちの生活を守る為に命をかけて起ちあがった大事件である。米やお金に幕府
   が愈愈、行き詰まり少しでも沢山の年貢を取るために、今までの一間6尺1寸(182p)でなく1間
   5尺8寸(176p)で見分し1反に22坪の面積を多く測りその分年貢を多く集めようとした為、野洲
   ・栗太・甲賀の375村の農民が庄屋を先頭に4万人、三上の幕府代官所に押し寄せ、見分を止
   めるよう必死に願い、遂に「10万日」西暦2116年までの見分の日延べを認めさせた。しかし是
   で全てが終わりではなく首謀者は勿論の事一揆に加わった者達それぞれに、罰が与えられ伴
   中山の総代2名も中追放の罪に処せられている。
          百姓清八(現富田喜与一さんの高祖父)、百姓伝三郎(現中森一夫さんの高祖父)