15.伴谷の歴史

 太古のようす                              「琵琶湖は伊賀からやってきた」

    今から400万年以上も前、大きな湖が今の三重県伊賀市(旧大
 山田村)あたりにありました。地球はその時代、造山運動が盛んで、
 隆起、沈降、火山噴火などを繰り返していましたから、時には湖底
 を持ち上げられ、せき止められ、姿を変えながら少しずつ北へ西
 へと移動していきました。それが今の琵琶湖になったと考えられて
 います。その途中、日野・蒲生あたりで蒲生湖というもの(約200
 万年前)を形成した時期があります。その前後、私たちのこの場所 
 も湖の底、あるいはその水辺だったと思われます。一般に水口丘
 陵の地層は古琵琶湖層群と呼ばれ、昔この辺りが琵琶湖の底だっ
 た頃に堆積したもので、粘土質を多く含みます(焼物の材料にもな
 る)。近隣の松尾区ではその時代琵琶湖に生息していた貝の化石
 が見つかっています。
 

   
  桜ヶ丘区でも見つかる木の葉の化石

  古代の頃
 
○古墳時代
 
伴谷に記録はないが近くの泉区に5世紀中頃とみられる古墳群がみつかっていることからこ
   の付近も大和王権と関わりのある古代豪族の勢力下にあったものと想像される。
  ○奈良時代
   奈良時代初期には山直氏が付近を統括。
   ※山直氏=佐々城山君の一族 

 中世の頃12世紀頃)
 
○中世のころ全国に広がった荘園。
  
伴谷は柏木御厨(みくりや)と呼ばれ
  る荘園に属していました。
  
※御厨=天皇家・伊勢神宮などへ供
   祭物、食料を供給、貢進する所領。
 
○当時伴谷は上山村郷、中山村郷、
   下山村郷とよばれていました。
 
○鈴鹿西麓よりでた山中氏が荘園の 
   管理者として柏木御厨を中心に勢
   力を伸ばす。
   

 鎌倉時代(13世紀頃)〜
 
○御厨領内では在地の有力者であった美濃部氏、伴氏が自ら領主化をめざします。
 南北朝時代(14世紀頃)
 
○14世紀はじめ、中山村、下山村、畑村(現春日)
 室町時代(15世紀)
 ○甲賀各地に割拠した有力者たちは谷の入り組んだ地形をたくみに利用し土塁を積み城塞を
  築いていきました。伴谷内にも城址が多く残っています。
  伴城山、津山城、城屋敷、迎山城、下山城、上山城、田引城、伴中山城、西出城、八田城、
  百姓村城
 ○1487年 鈎の陣で伴氏、美濃部氏、山中氏、上山氏ら戦功あり、後に甲賀五十三家と呼ば
  れる。

      

 戦国時代
  
1570年  上山城(山)は織田信長に攻め落とされる。伴氏は織田信長に仕える
  1582年  伴資宗氏 本能寺にて信長と共に戦死、下山城は廃城となる。
  1585年  中村一氏 水口岡山城主になる
  1590年  増田長盛     同上
  1595年  長束正家     同上
  1600年  関が原の戦で西軍破れ岡山城落城、焼失、長束正家は日野へ落ち、妻栄子姫は
        はぐれて山中をさまよい北脇へ
    桜ヶ丘を通った栄子姫   
     山直(やまなお)の桧泉(ひのきしょうず)の水絶えず 我が長束の城は絶えにけり
    水口城主(当時は古城山の上)長束正家は、関が原の戦で西軍方についたため敗北の直後
    東軍に城を攻め落とされた。正家は日野へ逃げ落ちたが、臨月で身重の夫人栄子は道をあ
    やまり松尾の集落から山道へと迷い込んでしまいます。その際どこをどのように通ったかは定
    かではありませんが、伝承では小松尾(旧第1水口台)→畔八丁(現第四水口台)→菖蒲谷
   (桜ヶ丘BCブロック付近)→千代坊(千代坊池付近)を経て伴中山方面へ出、最終的に北脇で
    かくまわれ、出産後に亡くなったといわれています。
    今も北脇(柏木神社の西近く)には姫塚が残っています。

   江戸時代
  
最初期は 伴上野守資光が治める。
    1602〜1682年までは幕府直轄地として代官職が置
    かれる。
   1624年 上山村(現山)を上村と下村に分割
   1632年 小堀遠州 水口碧水城完成 
   1655年 八田焼き始まる。
   1675年 上村を分けて、上村と堂村とする。
   1682年 加藤明友 水口城主となる。

 
      現在は307号線に移された芭蕉の句碑

   1749年 寺子屋創業(八田村、春日村、下山村、伴中山村、山村) 明治7年ごろまで続。
               八田では西栄寺、下山村では九品寺、山村では善勝寺に置かれた。
      桜ヶ丘の近くを通った松尾芭蕉   〜はがれたる 身にはきぬたの ひびきかな〜 
         

   明治時代〜大正
  
1871年 廃藩置県  水口藩→水口県へ
    1874年 明治7年 学校の設立 余力学校(伴中山、下山) 敬心学校(春日、八田) 行文学
               校(山、松尾)畑村を春日村と改称 

   1875年 明治8年 上村、堂村、下村を合わせて山村と
               改称
   1886年 明治19年 春日尋常小学校開校、2年後に伴
               谿尋常小学校と改称
   1904年 明治37年 伴谷尋常小学校 現在の位置に新
               築   <日露戦争勃発>
   1911年 明治44年 村役場と農業組合事務所の2ヶ所
               に電話開通 
   1913年 大正2年  各家庭に電灯つく

  
   

  地名の移り変わり
   山      
上山村 → 江戸期 上村と下村に分割 
                                     →上村(東部)、堂村(山村神社付近)、下村(菅谷付近)に分割
                                                        →明治八年 三村あわせて 山村    → 山
   伴中山 中山村   →中世以降 伴氏が治める中山村=伴ノ中山村      → 伴中山
   下山     下山村                                                                      → 下山  
   春日      畑村                              →  春日村 → 春日
   八田  
八田村(かつては岩根郷に属する)                      → 八田  
                 
                   
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