昭和46年に東宝ランドによる開発が始まりました。
翌年に第三水口台、さらに次の年に第四水口台が開発されました。
航空写真は、開発前と、開発後に住宅が建ち始めたころの比較写真です |
開発前 昭和46年5月
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開発後 昭和49年5月
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※写真は上記撮影縮尺よりさらに約15%縮小しました。
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開発当時の様子
水を守る
開発後間もなく東宝ランドが倒産してしまい、井戸水による給水塔管理を自分たちで行う
ため為、第二・第三・第四住民による水口台水道組合が結成されました。活動内容などは次
のように大変なものでした。
・水口町役場へ、町水道導入依頼活動。
・東宝ランド倒産のため、関西電力より給水塔に供給している電力の供給停止を言い渡され
ましたが、住民は断固として受け付けませんでした。
(電力が止まれば水が出ない、水が出ないと生活ができなくなるため。)
・
給水塔に地下水を地下250mから汲み上げ、住民みずからの手で水道設備の消毒、清
掃、点検、濾過材交換作業などを行っていました。
・
給水塔のポンプや配電盤が故障した時は、住民が協力し修理をしました。
・水脈低下による復旧工事(←業者に依頼)。
・団地内を大型トラックが通行すると水道管が破裂する為、第二水口台入り口にコンクリート
ブロックなどを設置して、大型トラックの通行を阻止し監視体制を強化。その取組みは当時
の新聞にも掲載されました。
・
団地内での漏水見回り活動。
・水道管理組合加入者への会費入金管理活動。 などなど。
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開発初期の少ない人数での管理活動は大変なことでしたが、そのぶん住民の連帯感はす
ばらしく、自分たちの生活を守るために全員がまとまっていました。それでも苦労は絶えませ
ん。雨が降った後は水質が急激に悪くなってしまい、飲料水確保に大変苦労しました(特に大
雨のあとは赤茶けた水が出てきてたいへんでした)。また、松尾区や山区に水をもらいに行っ
たり、水口の銭湯へ行ったりしました。 |
町の上水道開通へ
町水道にしてもらうため住民で毎晩会議を行い、あらゆる手段を考え討議を重ねました。
町会議員や弁護士などワラをも掴む思いで相談し、奔走しました。そして昭和59年念願の町
管理の上水道が引かれ、水口台水道組合は解散しました。 |
水口台 第二(現桜ヶ丘)、第三、第四の生活環境の原点は、まさに水道管理組合の設立にあったと言っ
ても過言ではないと思います。
当時の住人は死活問題でもある水道管理を、我が家庭を守るためにも必死になって守り抜いたのです。
ただ台地内の水道設備を管理すると言っても、この台地内の区画数は3千区画もあり、たかが十数名の住
民にとって、それは並み大抵のことではありませんでした。自治会による親睦などと言っている暇はなく、死
活問題である水道管理をいかに継続していけるのか? せっかく苦労して手に入れた我が家を廃墟にしたく
ない思いで、全住人が必死になって毎晩遅くまで対策会議を続けていました。その先頭に立ち水道管理組
合を統率されたのが当時の第一期水道組合長であった、第三水口台の網本章さんでした。
いずれにしましても水口台がここまで世帯数が増え、安定した生活環境が整備されたのはなんと言って
も、この土地に安住を求められてきた人々のおかげであると感謝する今日この頃です。 |
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電気
・東宝ランドの倒産により、給水塔に供給している電気をストップさせる、と関西電力から通知
を受けて、住民一同が水口町へ対策を取るように抗議しました。
・街灯が充分に設置されていない為、夜になるとあたりは真っ暗で足元が全く見えず、おまけ
に道路は穴だらけなので怖くてとても歩けませんでした。 |
生活環境(買い物など)
・町の中心部に平和堂があったのであまり不自由はありません
でしたが、マイカーがないと不便でした。自転車の方もおられま
した。
・町営バスはまだ走っていませんでした。
・当時西友はまだ近江鉄道の水口石橋駅前(旧東海道)にありま
したし、役場付近はのんびりとした田園風景が広がっていました。 |
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・伴谷小学校までの道のりは4km約1時間。雨でも雪でも、夏の炎天下でも1年生でも、皆
早起きして、当時は狭かった泉―日野線をテクテクと歩きました。あの道にはまだ蛍がいま
した。 |
自然環境
・昼間でも野生のきつねやキジなどが見受けられて、自然環境は
最高でした
・戸数は数十軒で空き地はススキ野原状態、それはそれは自然
そのものでした
・人とのつながりも大きくのびのびとした環境でありました。
・
隣家との距離は300〜400mほどもありました |
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