町水道化への道

     町水道化への道

     

 昭和47年誕生した湖南ニュータウン(現:広野台西区)は当初から町水道だったが、翌年誕
生した翠が丘ニュータウン(現:広野台東区)は、大倉建設(広野台宅地造成会社)の私設水道
であった。

 その後、戸数の増加に伴ない水の濁りと水量不足が生じ、また、トラックなどの通過による
水道管の亀裂、断水の多発などその対策が急務となってきた。

昭和58年、広野台区は全戸への署名運動を展開し、同年5月「町水道化要望の陳情書」
を水口町長に提出。次
いで、実現のための三者会議(町行政・大倉建設・広野台)を設立、当
時の町会議員も参加し、定期的協議に入る。

町水道化工事に伴なう工事費は約3,700万円だった。町行政案は、大倉建設が3,000
万円残りを町と広野台で折半負担だった。

大倉建設の3,000万円負担について、苦難の交渉の末、 町会議員、通産大臣、建設省
の支援も仰ぎ、昭和58年12月23日大倉建設より3,000万円の入金があり解決。

その後順調に工事は進み、幸いに費用も当初予算より安くすみ、各戸の負担も1万円以下
で済ますことができた。


 こうして昭和59年広野台全域への町水道給水が開始された。

                                参考資料:ひろのだいひがし第
2号,第5号